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當代記卷一 第177条

西暦 1575年6月21日(ユリウス暦)日付なし(前の条から引継ぎ)

人物地名家(氏)官職日付固定リンク /projects/todaiki/e/t1.177/

十三日の夜子尅、ふくへ丸を敵無理に乘んとす、其夜空曇て月不㆑明、此丸は澤の岸の上に、たゝ塀計構、土居は無㆑之、然共堅固に相拘之間、數度塀へ鹿の角を掛引と云へとも、內に繩を付、引へ柱を堅構之間、敵不㆑得㆑乘、殊橫矢を以射㆑之間、敵手負不㆑知㆑數、此丸へ行道の狹所、誠にふくへのことし、塀岩の上に立間、鹿の角にて引落之條、夜明なは通路不㆑可㆑輙とて、九八郞令㆓下知㆒、ふくへの丸の人數を升方の丸へ引入る、此時敵わくを持來、それに竹たはを早速に付、せいろを可㆑上之企にて柱を立る、茲にせいろ上なは、大手の門の通路可㆑及㆓難儀㆒とて、鐵炮數箇丁を以打㆑之、自㆓本丸㆒大鐵炮を以、右の竹たはを擊之間、せいろ上んことを不㆑得、徒に夜明畢、此時信甲衆手負死人七八百在㆑之と云々、又本丸の西の角へ敵仕寄、土居へ金鑿を入、大石を掘崩谷へ落す、然處土居の角の內に掘崩さは、又是にて相抱經㆑日、後詰を可㆑奉㆑待とて普請す、此時城中に手負死人多出來す、後運を開、此處を見るに、元來岩にて掘ん事を不㆑得、城中へ氣を可㆑失とて、大石を夜中に外より持來、掘崩まねをして、下の谷へ落しける也、于㆑時九八郞父美作、又自㆓家康公㆒石河伯耆守を相添、岐阜へ被㆑遣、此趣信長公へ被㆓告申㆒、後詰被㆓相催㆒、信長公貴意之趣、三川滅亡せは、手前難儀可㆑近之旨、兼て思設給間、早速に相催、中旬有㆓出馬㆒、十九廿日に被㆓押寄㆒、陣の面に緊く柵を振、堅固相備、家康公の臣下酒井左衞門尉、本多豐後守、奧平美作定能、其外五千餘、夜中に河を越し吉河へ相移、終夜越㆓深山㆒、廿一日未明に、城の向鴟の巢久間兩地、敵の付城へ押懸打㆓破之㆒、而城と一手になる、敵見㆑之無理に信長家康之陣所へ押かゝるへき體にて寄來處に、素兩將の陣所の前にさくをふり、向の原へ鐵炮の者數千丁指遣、敵の備へ打入の間、每度中㆑之、敵手負不㆑知㆑數之間引退、加樣にする事及㆓度々㆒、勝賴の內馬場美濃守、山縣、土屋、內藤修理、眞田安房守、仁科信玄末子、海野、望月、那輪無理助以下、宗との者悉保マヽ死畢、因㆑玆勝賴敗軍の間、信州境まて追々擊㆑之、幾千と云數を不㆑知、作手田嶺鳳來寺岩小屋何も、信甲衆番手令㆓悃望㆒之間、信濃迄相送、城城無㆓異儀㆒、奧平九八郞信昌手へ請取也、此時直に信甲へ被㆓打入㆒は、誠に少の手間も入間敷處に、信長は濃州へ歸馬、家康公は遠州へ歸馬し給間、信甲敗軍の者共、暫氣を休けると也、是も甲州を强敵と思給故歟、

この条の人物 ・・・・・・・・・・・・・・・