五月十八日、淺野紀伊守紀伊國主悉皆之用人松原內記を、左內と云年十七者指殺、其故は、彼左內京都之者なりしか、紀州へ奉公望依て可㆑下の由、傳を以松原內記方へ云送、內記則承引し、小袖以下を遣令㆓招請㆒處、內記戀暴甚成ける間、紀州へは不㆑出して、私に抱置令㆓懇志㆒、六月丹波國普請可㆑有とて、彼內記をも從㆓紀州㆒可㆑被㆑遣と也、彼左內事、紀州內々被㆓聞及㆒、有㆓相見㆒度被㆑思、度々內記所へ被㆑行けれとも、深く隱間、終に無㆓被㆑見事㆒、此度丹波國にて可㆑有㆓露顯㆒と思けるか、彼左內を廿日已前に、人を付京都へ上せける、さて跡より狀を以、左內方へ申贈ける者、向後內記相抱間鋪と也、左內此狀を見て、大變氣色、さて父母親類に隱、紀州へ只壹人下り、彼內記常之居間へ來る、內記轉寢して居ける所を、大脇指を以三刀に殺害す、則其身も相果る、彼左內甚美麗と云々、其後左內介法之伯父坊主、此儀を內々存る歟とて、從㆓紀州㆒駿府奉行中幷城之女房衆へ被㆓申贈㆒、叔父坊主を被㆓抑留㆒、大御所無㆓御承引㆒、所司代板倉伊賀守も此事紀州の存分不㆑可㆑然由申ける、京畿の者共何も、是は紀州被㆑申間鋪事を被㆑申けると批判しけると云々、此事淺野紀州此儘打置なは、京都外聞不㆑可㆑然とて、頻駿府へ訴けれは、難㆓默止㆒して、彼叔父坊主を、十一月紀州手へ相渡、被㆓籠舍㆒けると也、