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毛利秀就
本文表記 秀就・松壽丸・藤七郞・長門守秀就
毛利 第八上 · 20
- p006…時、叔父穗井田備中守元淸が嫡子秀元を子として、後二人の男子をまうく、兄は秀就、弟は就隆と名づく、秀就童名は松壽丸、其後藤七郞と改め、慶長四年に叙爵し…
- p006…が嫡子秀元を子として、後二人の男子をまうく、兄は秀就、弟は就隆と名づく、秀就童名は松壽丸、其後藤七郞と改め、慶長四年に叙爵して、長門守に任ず、同き五…
- p006…を子として、後二人の男子をまうく、兄は秀就、弟は就隆と名づく、秀就童名は松壽丸、其後藤七郞と改め、慶長四年に叙爵して、長門守に任ず、同き五年十月十一日…
- p006…後二人の男子をまうく、兄は秀就、弟は就隆と名づく、秀就童名は松壽丸、其後藤七郞と改め、慶長四年に叙爵して、長門守に任ず、同き五年十月十一日に侍從になさ…
- p006…五年十月十一日に侍從になされ、十三年六月、大御所の御孫女三河守殿の御娘、秀就の家に入り給ふ、大坂の軍、起りし時、秀元秀就共に關東に馳せ向ひ、東西和睦…
- p006…御所の御孫女三河守殿の御娘、秀就の家に入り給ふ、大坂の軍、起りし時、秀元秀就共に關東に馳せ向ひ、東西和睦あつて後、二人同じく本國に歸る、再び軍起りし…
- p006…睦あつて後、二人同じく本國に歸る、再び軍起りしに、秀元速に馳上りて軍す、秀就は海路心に任ぜずして、軍散して後に參る、寛永二年四月廿七日、輝元入道宗瑞…
- p006…永二年四月廿七日、輝元入道宗瑞、年七十三歲にて卒す、同き三年八月十九日、秀就少將に任ず、八年十月五日參議秀元、秀就に家を讓る、秀就國務を行ふ事、凡そ…
- p006…三歲にて卒す、同き三年八月十九日、秀就少將に任ず、八年十月五日參議秀元、秀就に家を讓る、秀就國務を行ふ事、凡そ廿一年、年五十七歲にして、慶安四年正月…
- p006…き三年八月十九日、秀就少將に任ず、八年十月五日參議秀元、秀就に家を讓る、秀就國務を行ふ事、凡そ廿一年、年五十七歲にして、慶安四年正月五日に卒す、秀…
- p006…就國務を行ふ事、凡そ廿一年、年五十七歲にして、慶安四年正月五日に卒す、秀就に御家號を賜ひし事、いつれの時といふ事を知らず、子息大膳大夫綱廣、承…
- p007…ふべけれと申して、我身は僅か豐東豐西豐田三郡を領し、長門の國府に住して、長門守秀就が成人の程、彼家の事を執り行ひ、常に關東に伺候す、頓て兩國の公役、免除せ…
- p007…、かの家に入らせ給ひけり松平因幡守康元の女也大坂の軍起りし時、秀元秀就、關東に侍ひしを、御跡に留めらる、秀元、水野監物忠元に就きて、大御所に訴…
- p007…元に就きて、大御所に訴ふるは、秀元忝けなくも、御養女を下されて、妻とし、秀就また御孫女を迎へ奉る、如何でかく御心をば隔て給ふらん、あはれ御許を蒙り、…
- p007…また御孫女を迎へ奉る、如何でかく御心をば隔て給ふらん、あはれ御許を蒙り、秀就を引具し馳せ向て、一方の先陣を賜らばやと望む、大御所、伏見の御陣にて、此…
- p007…の御陣にて、此由を聞召し、頓て二人を召されたり、東西御和睦ありし後、秀元秀就、本國に歸る、元和元年の五月、軍再び起ると聞て、秀元秀就に牒狀し、夜を日…
- p007…睦ありし後、秀元秀就、本國に歸る、元和元年の五月、軍再び起ると聞て、秀元秀就に牒狀し、夜を日に繼て上る程に、西海南海の諸軍勢、いまだ一人も參らざりし…
- p007…首三百餘切て獻る、此內證據正しき首撰て、百五つを奉りしなり、秀就は、軍散じて後、馳せ參る、秀元御感に預る上は、秀就別の御咎もなし、寬永の…
- p007…を奉りしなり、秀就は、軍散じて後、馳せ參る、秀元御感に預る上は、秀就別の御咎もなし、寬永の初、秀元關東に伺候しける時、輝元入道宗瑞、秀元の許…
- p007…く、安堵の思ひをなしてけり、同き二年宗瑞入道卒しぬ、八年十月五日に秀元、秀就に家を讓る、自ら五万石を領し長府の城にあり、かくて左大臣家の御時に…
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