f165.p001교정81L:13–1482R:1–4山城守源重隆は雅樂頭忠世が子、實は金森出雲守可重が子也、童の時より左大臣家に仕へ奉り、堀田加賀守正盛と一双の寵臣にて、官も職も互に上たらず下たらず、凡そ賞祿賜ふも正盛給ふ日は重隆同く給ひ、重隆が給ふ時は正盛給はらずと云ふ事なし、正盛祿三万石に至りし時、重隆も同き日に三万を賜ふ、いづくを領せしにや定かならず如何なる故にや重隆身の煩ある由を申て、籠り居て年を經し後、忽に罪かうふりて備後の國に流され、水野日向守勝成に預けらる、
f165.p002교정82R:5–8世に傳ふるは重隆籠居せし中に、かの妻男子二人を設け、妾の子また二人を生みぬ、これを聞く人、重隆が病と稱すること詐れるなり、身奉公の勞にだに堪へずして如何にかく多くの子まうくべき、彼が病たゞ酒と色とに在りけんなど云ひし程に、御不審かうふりしと云ふ也、
f165.p003교정82R:9–12その後加賀守正盛が次第に歷上りて、四位の侍從して佐倉の城を賜ひしことを聞きて、さしも彼の正盛とは重隆一双の者なりけり、云甲斐なき命ながらへんこと、耻ぢがましとて、食を斷ちて死しけるとぞ聞えし、其後その二男權兵衞重照を御家人に召出さる、嫡子をば右衞門八といひき早世しけるにや