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목차 › 제1 상(第一上) › m1.039

히로타다의 죽음과 신파치로·히코지로의 후다이 문답편집 표제

39 · 876자 ·편집 단락

廣忠は其年二拾三にて御病死被成ければ、岡崎得も駿河寄入番を入而持けり。扨又本城之御番は誰に而御。大久保新八郞と云。扨二の丸之御番は誰人に而御やと云。田中彥次郞に而御座候。扨新八殿聞召御代々御忠節と申、又はか樣に辛勞苦勞して御奉公申上、君之御手も廣成申たらば、御普代之衆は手と手を取合而、飢死に候はんにやと云。新八郞申、御心安あれ此君御慈悲ふかければ、御手廣ならせられても、飢ゑ殺しは被成間敷、御身之如㆑仰末の御代には必さもあらん。御手も廣あらば新參犇付之衆多來り而、獨樂をまはすがごとく御奉公申ならば、其を御身近召つかはるべし。其耳弄別儀別心之末の子孫供が、能御奉公申而、御意に入、御膝本近く御奉公可㆑申、又信光寄此方忠節忠功をなし度々走りめぐりをして、親、祖父、伯父どもを打死させて、御代々御忠節申上たる子孫なれども、惡召つかはさるゝと申而、御不奉公をかならず可㆓申上㆒、其時普代もいらざるとて、押はらはれ可㆑申。御普代久敷者はちり〲に罷成、忠節忠高之筋は一人も無して、普代もいらざるとて、行得も無者を普代と可㆑被㆑仰御代もかならず可㆑有。然ども其御代には御普代も入不㆑申供又入申御代も可有。其を如何にと申に、此跡之御代にも御手之廣がる御代も多し。又はらりと崩れて御手狹む御代も多く候つるを各々御存知成。御手之廣き御代には御普代は入申間敷けれども、又末之御代に御手せばに成たる御代に前前の御代に御慈悲無おいはらはせ給ば、後には御普代之筋をも御存知有間敷、又は普代之衆も御普代之御主を知るまじきければ、御身にあてゝ引立申者有間敷ければ、其御代にあたらせ給ふ御主をいとをしく存知候。只今之御主廣忠は、御慈悲のふかく御ば御心安あれ。此君之御代に飢ゑ殺は被成間敷候と云。田中彥次郞申者新八殿尤成。只今之御慈悲は申つくしがたし。如仰末之御代に御慈悲無御代も可有候。左樣之御代も出來させ給ば、御代々久敷筋は散々に成て、御主も御普代之筋を御存知有間敷は歷然成。又御普代之衆も、御普代之御主を存知申間敷は、是もれきぜん成。然者其御代にて信光寄之此方、御代々之忠節を積み置而河へ流す迄。