扨又義元は打死を被成候由を承候。其儀に置而は、爰元を早々御引除せ給ひ而、御尤之由各々申ければ、元康之仰には、たとへば義元打死有とても、其儀何方寄もしかとしたる事をも申不㆑被㆑來に、城を明退若又其儀僞にも有ならば、二度義元に面をむけられん哉。其故人のささめき䇻くさに成ならば、命ながらゑて詮もなし。然者何方寄もしかとしたる事無內は、菟角にのかせられ間敷と仰除而御座候處得、小河寄、水野四郞左衞門殿方から、淺井六之助を使ひにこさせられて、其元御油斷と見得たり。義元社打死なれば、明日は信長其元得押寄可被成、今夜之內に御支度有而、早々引のけさせ給得、然者我等參而、案內者可申由を、申被㆑越候得ば、六之助、主之使に來り而申けるは、我等に御案內者申而、早々御供申せ。信長押寄給はゞ御六ヶ敷候はんと、四郞右衞門申被㆑越候間、我等に三百貫被㆑下給得、御供申さんとて知行をねぎりて御案內者を申けり。水野四郞右衞門殿は腹を立、憎やつばらめ、成敗をいたし度と被申候得ども、敵味方の事なればせいばいも弄、大高之城を引のかせられ給ひ而、岡崎には未駿河衆が持而居たれども、早渡してのきたがり申せども、氏眞にしつけのために、御辭退有而請取せられ給はずして、直に大樹寺得御越有而御座候得ば、駿河衆岡崎之城を明而退ければ、其時捨城ならば、拾はんと仰有而、城得うつらせ給ふ。其時御普代衆悅而、扨も〱も目出度御事哉、十ヶ年に餘普代之御主樣を遠くに置奉り而、一度岡崎得奉㆑入而、とてものはしりめぐりを御目之前に而申度と願ひ而、餘國も無、猪猿之樣成やつばらどもに折れかゞ見、敗つく敗かゞみまはる事も、一度は君を是得入申さんため成。御年六歲之御時此城を御出被成、永祿三年庚申五月二十三日、生年十九歲之御年、岡崎之御城得入せ給ふ事之目出度さと申而、悅申事無㆑限。然間駿河と御手切を被成候得て、元康を替させられ而、家康にならせられ給ふ。