故をもつて坂井左衞門督殿は、七郞右まづのき給へ。七郞右之のき給はずば、我はのく間敷と被申候。七郞右は左衞門督のき給へ、左衞門督殿のき給はずば、何と有而ものく間敷と、申はらつていたりけるに、敵はさわを越而我おとらじと、むかひの原へ押上けれ共、此もんどうがはてざれば、さらばとて左衞門督殿のき給ふ。左衞門督殿も此もんどうにはらを立而、四つ之比のき給ひしに、陣場に火をかけ而陣ばらいをし給へば、敵は此由を見るよりも、早めて押出す。左衞門督殿は其寄もあとも見ずしてのきはらい給ふ。然處にはじめ寄一手におしたる事なれば、六手の衆は一度にのく。しつはらいが、岡部次郞右衞門、二の手があな山衆、三が大久保七郞右衞門、四が本田豐後親子、五が石河長門守、六が大すか五郞左衞門、是六手が一所に成て五郞左衞門を先に押立、だん〱に押而のきける所に、氏なほは四萬三千之人數にて、嵩成道を押而敵を見くだして、先をもぎらんと踸。六手之衆は漸々取集而雜兵三千之內外にて、敵をかさに見上而、無㆓動轉㆒引のけける處に、早頓而先を取きらんとしたりける處に、六手が一度に立とゞまりて、旗を押立て踸ければ、敵も歸され而徐呷而見へければ、猶侑而あしがるを出し、てつぱうを打かけて、其競に酷ずして禪引のきければ、敵もしらみて見へける間、そこを十町斗引のけて又旗を立て、敵を相待たるていにいたし候へば、敵も脇へまわすと見へける處へ、早石河はうき守をはじめとして、其外之衆すけ來りければ、坂井左衞門督も押とゞまる。然間氏なほも其寄若見こへ押而、陣之取給へば、各々は新府へ入而陣之取ければ相陣に成。然間六手之大將衆心おくれ之衆ならば、はいぐんもせでかなわざる事なれ共、各々度々之事に合付たる人々の事成。其故三千之人數が千斗は度々の高名、名をあらはしたるこゝはの者共なれば、十萬騎二十萬騎にてよせくると云共、一合戰づつ花々とせずしては、六手ながらおくまじきそなひに候へば、四萬三千之人數をもつて、纔三千之內外之者が、七里之道をつかれて、人を一人打せずして引のく事は、上古も今も有がたし。