天正十八年庚寅三月廿八日小田原の御陣立なる。うき島が原へ押出してさうが原に御陣の取せ給ひ、にら山の城へ人數を指越給ひて責させ、其よりはこね山をひらおしにあがりて、山中の城をとをりがけにのりおとして、太閤の御旗はむじりがとうげに打あがらせ給ひて、石かけ山に御陣のとらせ給ふ。家康はみやぎ野へかゝらせ給ひて、くの原へ出させ給ひ、其よりいまい、いつしき、濱の手をうけとらせ給ふ。思ひ〱に山々をのり越て城を取まきけり。關東へは加賀、越前、能登、越中、越後、信濃衆を引つれて、加賀大納言、うへ杉景勝の出給ひて關東の城々をのこらずうけとりて小田原一城になす。然る所に早松田尾張もべつしんのくわ立けり。みな河山城も城よりかけおちをしければ、城中も早成間敷とてぶぢのあつかいにて落城する。其上にて氏政と奧州と兄弟に腹をきらせ申て、氏なおと、安房守と、美濃守と左衞門助をばたすけ給ひて高野山へやり給ふ。さて又家康は國替可被成においては關東にかへ給へ、いやに思召ば御無用なり。何と成共御存分次第と被仰ければ、尤かへ可申と被仰て三河、遠江、駿河、甲州、信濃五ヶ國に、伊豆、相模、武藏、上野、下總、かづさ六ヶ國にかへさせられて、關東へ庚寅の年うつらせ給ふ。其より太閤は御馬が入、天正十九年辛卯七月日、くわんぱく殿大將はして奧州陣有りて家康の御旗は岩手ざわに立。然間奧州もこと〲くおさまりて關白殿は板屋越を被成て米澤へ入せ給ふ。家康もよなざわへ御越被成て關白殿と其より御歸國。