藩翰譜は元祿十四年辛巳、白石先生四十五歲の時、撰述して甲府參議綱豐卿上りし書なり、折焚柴の記に、
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校刻藩翰譜例言
庚辰の年十二月十一日、國初より此かた、其封祿万石以上の人々の事まで、進講の暇あらんをり〱に、如何にもしるして、まゐらせよかしなど、仰せられしに、明けの年、辛己の正月十一日に、其事を以て、仰せ下さる、同しき十四日に、先づ其書を撰ふべき凡例を、しるしてまゐらす、然るべき由を、仰せ下されしかば、これより、諸家の事共、尋ね究めて、七月十一日に至て、草を起し、十月に至て、稿を脫す、事は慶長五年に始りて、延寶八年に至るまで、八十年の間、始封襲封、及ひ廢除等、凡三百三十七家其書たる正編十卷、附錄二卷、凡例目錄、共に一卷、通計十三卷を分て、二十册となし、自ら淨書功終りぬれば、明る壬午の二月十九日に、進呈す、是より、又書名をば、御自ら選ひ給ひて、藩翰譜と題せらる、
されば、此書の成れるは、起草より脫稿に至る、一百餘日に過きず、而て世又異本あり、記事文辭、往々其趣を異にせり、室鳩巢先生の序に、今也、君美居家多間、乃簡較平生所撰之書首及此譜とあれば、異本は、蓋し此時再修の者とすへきか、此序は享保元年九月にて、元祿辛巳より、十六年の後なり、
さて本譜の謄寫して、世に傳へたる本、其幾百千部なるを計る可らず、寫本愈多くして、誤脫愈多きを加ふ、天保中、津山侯の儒臣昌谷碩精谿翁、一の善本を得て、これに校正を加へたる本あり、
一明治十四年、本社創立の當時より、此書を校訂上版せんとし、塚本明毅三田葆光兩子、其訂正の任に當る、塚本子は、寛政重修譜に據りて、大に修正を加へんとす、其業たるや殆と改修の擧に近し、故に其完成を告けず、本社も亦尋て印行等の事を、中止するに至りて、數年を送れり、二十三年五月、大槻修二子、本社總代となり、復ひ本書校刻の業を起し、內藤恥叟子に、校訂且つ標註の事を囑せしが、荏苒また五年を過きぬ、今玆甲午三月、斷然其業を果さんとて大槻子專ら本文校閱の任を負ひ、先きの數本を基として、參互校訂せしに、其得失異同、亦復少からず、因て其兩疑に渉る者は、これを欄外に註し、其誤脫の著しき者は、直に本文を改め補ひたり、又文字言辭の改正は、左の四條にあり
○第一假字すへ末ゆへ故おはり終よわひ齡まいる參もちひ用見へ聞へ等の類は、正訓にあらず、故に此等の假字遣は、すゑ、ゆゑ、をはり、よはひ、まゐる、もちゐ、見え聞え、に改む
總ていゐひ、えゑへ、おをほ、はわ、うふ等は正訓に改めたり
○第二音便行合ふたり、戰ふて、養ふて、などは、行合ひ戰ひ養ひの音訛なれば、旁書の如く、ウを正しとす、又まふけ設は、マケの延語なれば、マウケとすべし、此等の類皆ウと改めたり、
○第三語格ぞ、るこそ、れは、りや、らんの係り結ひの格は本文極て正し、其相違せるは、誤字なる事明けし、但し云ふにや及ぶと書ける所、往々あり、これ及ばんと結ばざれば、やの係りに適はず、亦改む、
又申せし記せし亡せしとは、正格にあらず故にこれを申しゝ、記しゝ、亡しゝ、と改めたり、されど、再ひ考ふるに、佐行四段即ちサシスセト活く言葉は、より過去脚言なるシ、シカを受くる事久しく通俗の語法となる、故に强て正格に改むる時は、枉を矯めて直に過ぐるの恐れなき能はず、因て第四中よりは、原文のまゝ、申せし記せしとなせり、同法の言語皆同し
○第四眞字かならず必たちまち忽したがつて從てやしなつて養ておしよせ押寄うけたまはる承の類は、總て眞字に改めたり、假字眞字、何れなりとも、讀り誤る事なき限りは、悉く眞字に改めたり、これ讀むに便りよくして、且つ字數を减すればなり、但し問答などの語勢に、假名文にあらされば、其形容を見ること能はざる者は、總て原文を存せり、
又無程不斜等の類は、程なく斜ならずと改む、
一本書は細註甚た多し、これを熟讀するに、全く註文に屬する者あり、又補遺考證を示せる者あり、この校刻本は、其註文をば、舊の如く細書とし、補考の兩事に屬する者は、本文同樣の大字とす、但し一字を低下して、これを分てり、この體の寫本も、亦世にあるなり、
一欄外の標註、その參據となるべき事實は、總て內藤子の所記なり、而て人名、地名、官名、及ひ事物などの訓釋より、本文脫漏の卒年月年齢等は、大むね大槻子の補ひ加ふる所に係れり、
一家々の系圖は、各譜の首に揭ぐるを、本譜の本體とす、然るに通行寫本は、系圖を缺く者、甚だ多し、昌谷翁の校正本は專ら此系圖の補正にあり校刻本は、系圖を集めて、一册とし、原序凡例、及び總目錄とを、幷せて、これを卷首に置かんとす、
一校刻本は、合卷六册とす、一二三の三册は德川家門譜代の譜にして四五兩册は外樣大名の譜なり第六册は本書の附錄、即ち廢絕諸家の譜なり
明治二十七年六月