三河守殿は、德川殿第二の御子、御母は家の女房、いさゝかゆゑ有て、三河國產見1といふ所にて生れ給ひ、德川殿御子ともし玉はず、本多作左衞門重次とりて養ひ參らせ、御名をば於義丸殿と申奉る、御兄岡崎の三郞殿、如何にもして、父上の見參に入ればやと思召し、於義丸殿三歲の御時、德川殿岡崎の城に入らせ玉ふこと有りしに、かねて能く敎へ參らせ、殿の渡らせ給ふほとりの明障子、引うでかし、父上〓〓と聞え給ひしに、德川殿はやく心にさせ給ひ、御座を立たせ給ふ所を、三郞殿御袖を扣へたまひ、信康が弟の候を、今日見參に入ればやと宣ふ、深く恨みいきとほり給ふ御氣色見えければ、此上は見參無くては事あしかりぬと思召され、德川殿再ひ御座につかせ玉ふ、三郞殿頓て於義丸殿の御手を引て參り玉ひ、近う渡り給へとありし程に、御膝の上にかきすゑ玉ひしかば、三郞殿歡ばせ給ふこと斜ならず、かくても猶重次が許にぞ、ひとゝならせ玉ひける、三郞殿うせ給ひて後は、德川殿此人のましますを、賴もしき事に思召す、天正十二年冬、豐臣秀吉北畠殿につきて、御子一人、養君とし奉るべきよしを申さる、德川殿異父同母の御弟、三郞四郞殿をのぼせ給ふべしとありしに、御母上ゆるさせ給はねば、力なく、於義丸殿のほらせ玉ふべきに定り、この年十二月の末、大坂に趣かせ玉ふ、秀吉深く悅ひ、やがて元服の儀行なはれ、羽柴秀康と名のらせ、河內國にて所領參らせ、一万石明る十三年七月十一日、みづから關白し給ふとき、秀康朝臣御年十二歲なるを、四位の少將兼三河守になさる、抑關白守殿を養君とし給ひし事は、去りし天正十二年の春より、北畠殿と軍起りしに、德川殿、信雄の方人せさせ給ひし故、每度軍に利を失ひ、德川殿と戰ん事叶ふべからずと思召し返し、終に信雄と中直りす、これ偏に德川殿に親しうならんが爲なれば、彼御子養て、德川殿にも見參せんと謀らる、されど德川殿彼れの望に任せらるべしとも聞えされば、守殿うしなはれ給べきなど風聞す、德川殿此よしを聞召し、初め秀吉が望みしによつて、我子を與へぬ、彼子今は秀吉の子にこそあれ、家康が子にあらず、秀吉の子殺さんに、家康何とか思ふべきと、驚かせ給はず、秀康の御母お万どの、後に長勝院といふ深く是を歎き、此上は都にのぼり、兎にも角にも、守殿とこそ一所にならめとて、迷ひ出玉ふに、村田意竹入道、かひ〱しく、御供して、都にのぼり、守殿の御館に入れまゐらす、同き十三年の十二月、北畠の使として、羽柴下總守勝雄、土方勘兵衛雄久、德川殿に參り、殿は關白殿と年比の御恨あるにもあらず、一日信雄が賴み參らせ候に依て、御合戰に及ひき、信雄だに既に關白殿と中直りしつ然るに信雄が故を以て、兩家長く仇結ひ玉はん事、返す〱も歎きいりぬ、あはれ、東西御和睦あらんには、信雄が幸ひ何事か是に過んやと申さる、御許容の御氣色もなくて、使をば返されたり、明る正月二十一日に、下總守勝雄、また關白の御使となつてまゐる、御物語の序に、殿は久しう都の方は御覽せぬにて候、今は都のやうも、昔には事かはつて侍れば、且は御心をも慰められんがため、且は秀吉御父子にも御對面のため、御上洛あるべうもや候と申ければ、家康いま秀康に對面して何事をか語らふべき、且彼父の關白殿にだにも、參會に及ぶべからず、まして其公達に於てをや、家康信長の御時、都に登りて、見つべき所をば皆見つ、都戀しう思ふ所もなし、鷹臂にし狗曳かせ、野くれ里くれ狩くらす、何事の慰みか、この慰みに代ふべき、彼につき、是につきて、都に登らんともおほえず、たゞし秀吉みづから當時朝の御覺え、世のなびき從ふを恃みて、家康をも門下に伺候させんずるなど思て、上洛を催されんには、汝たゞ眞直に申せ、家康また思ふ所ありと仰せられしかば、勝雄大に恐れて、秀吉いかでさる事を思ひ玉ふべき、是はたゞ勝雄が存ずる處を、申たるに候とて、頓て御暇申て罷歸る、秀吉この由を聞玉ひ、とやせん、かくやすべきと案じわづらひ、きつと案じ出して、御妹君を德川殿の北の方に參らせらる、此上は、關白に見參有べしと聞えしかば、御家人等が心を安んぜんが爲、都に御逗留の程、其國にとゝめさせ給へとて、大廳を下し給ひしによつて、やがて都に登り給ひぬ、十五年の春、參河守殿御年十四歲、關白殿と共に、筑紫に渡り、一方の大將にて、日向國を平け、十六歲の御時、伏見の馬場に出で馬めされしに、殿下の御厩の預り、守殿と爭ひて馬を馳せ、頗る無禮に及びければ、馳違ひさまに、御刀を拔て、首を中に打落し給へば、爰に有合ふ關白の御家人等狼籍出來ぬとひしめく、守殿馬かけすゑ、はたと睨らまへ、やあ如何に殿下の御家人たらんものが、秀康と爭て、馬はせ、且は無禮をいたすべきやうやはある、あしうふるまつて、かたがたも過ちし、秀康怨むなと仰ければ、恐れて近づくものあらず關白此よし聞し召、秀吉が子に向て、無禮せんやつ、其罪死に當れり、あつはれ、秀康は心剛なるのみならず、はやわざも、人にずぐれたんなど、却て御感に預り玉ふ上は、何の御咎もなし、同き十八年の春、下總國の大名結城右衞門督晴朝、家人多賀谷安藝、使として、晴朝年既に五十に餘りて、いまだ家つがすべき男子なく、たゞ獨の娘あり、實は、晴朝の孫女にて、一族水戶但馬守が娘、是即忠直卿等の御母なり、あはれ殿下の御一族を賜て、聟君とし、我家を讓らばやと望む、關白殿悅ばせ玉ひて、於義丸を下すべしと仰ありしに、使者申次の人に近づきて、いづれの御事にわたらせ給ふにやといひしに、關白殿大きなる御聲にて、秀吉が子に、何條疑かあると、仰られしかば、愼みて仰せ承て下る、今年關白殿、北條を打亡し、まづ守殿を結城の館に入れまゐらせ、自らも彼館に至り、泊らせ玉ふこと三日を經て、奧に下らせ玉ふ、同き八月六日、晴朝守殿に家ゆづらる、是より結城殿と申し、十万千石の地、領せらる文祿の初より、朝鮮の事起る、肥前の名護屋に陣し、同三年結城に歸り、また伏見大坂に御館搆へて移り住み、其後參議に任し、太閤薨し給ひし後、宗徒の大名石田治部少輔三成を討んとす、德川殿人々を制し玉ひ、三成職解て、おのが城に籠居すべきに極る、猶路の邊れぼつかなしとて、守殿して送られしかば、三成難なく近江國佐和山の城に入る、此年九月、德川殿重陽の賀をせられんが爲に、大坂に至らせ玉ふ、大坂の家人相謀て、うしなひ申さんとの結搆ありと、告け申ものあり、此時守殿伏見の城に留守せさせ給ふ、伊奈圖書して、御家人等盡く參らせらるべきよし仰つかはさる、御家人等聞もあへず、鞭鐙を合せて、馳せ參る、大番の侍六番が其內、二番は既に御供に參る、殘る所の四番をも、皆まゐらすべしとありしをば、守殿とめ置かれて、御運傾かせ給はんには、たとへ何百万騎を參らすとも、叶はせ給ふべからず、もし御大事あらんには、かくこそ仕るべけれとおもひて、大番の侍をば參らせず候とて、御勢配のやうを、一々に書記し、伊奈に給て歸されたり、德川殿、あつはれ參河守は、父には生れまさりけりと、御感淺からず、明る年の秋、德川殿、奧の景勝中納言、御誅伐の時に上方の早馬來て、大坂の兵起りぬと申す、御方の大名小名、小山の御陣に集て、軍評定す、先づ此所より引返して、上方に向はせ玉ふべきに議定す、德川殿、本多佐渡守正信を召され、家康西に向はん時、景勝頓て跡を追て攻めのぼるか、さらずは又關東にや亂れ入らん、誰か此所に殘り留て、軍をばすべきと仰らる、正信誰とか更に申べき、守殿に若くことやあるべきと申、さらば召せとて召す、守殿御參りあるに、正信むかひ參らせて、いかに守殿、天下の安危は、今日に決し候ひぬ、能く心して物申させたまへと申て、御跡に隨て御前に參る、德川殿東西の軍の事、御物語有て後、おこと我が爲に此所に留りて、關東を鎭めなば、我はまづ上方に向て戰んとおもふは如何にと仰ければ、守殿御氣色あしう成て、秀康いかでか御後に殘り候べき、只いづく迄も、御先をこそかけ候べけれと、のたまへば、上方の軍勢は、みな國〱の集り勢、何十萬騎ありとて、何程の事かあるべき、抑上杉が家は、累代坂東の大將にて、中にも故輝虎入道が時に至り、弓矢取て天下に肩を並ぶる者すくなかりき、されば其子として景勝、又幼弱の昔より軍の中に成長し、年既にふけぬ、當時かれに向て、たやすう軍せんもの多からず、あつはれ、おことがためには、能きかたき、海道に向ひ、打込の軍せんよりは、おこと一人こゝに留て、軍したらんは、且は弓矢とつての面目、何事の孝行か、是に過べきと仰ければ、やゝ有て、守殿軍は必勢の多少によらぬと承る、上方の大將にも名を得たる輩少からず、勢のほども又さこそ多からめ、秀康いまた軍には慣らはねども、景勝一人が勢と戰んに、何程の事か有べき、あはれ大將をたに御許しあらんには、此所にや留り候べきと、宣ひしかば、正信聞きもあへず、いしくも仰せ候ものかな、關東を鎭め給はんには、大將を參らせ給はんこと、仰にや及べきと申ければ、德川殿世に御嬉しげにて、頻りに御淚をながされ、みづから御鎧一領取出して、抑此鎧は、家康が若かりしより、身に附て、終に一度の不覺をおほえず、父が嘉例に准へて、こたび奧方の大將して能き軍し、天下に名をあげ玉ふべしとて、參らせらる、守殿も、御心地よげに御暇申させたまひ、下野國宇都宮に陣取て、關東を鎭めたまひしに、上方の軍破れて後、景勝も降を乞ひぬれば、伏見に參り給ひけり、此度の勳賞に越前國賜て、明る慶長六年の五月、福井の城に移り給ひぬ、六十七万石を領し給ふ、按するに、守殿宇都宮より江戶に入せ玉ひ、夫より伏見に參り玉ひ、越前を賜て、伏見より越前へ入らせ玉ひしなり、北庄を改めて福井と名つけ、城築かれしなり、其後從三位中納言に至て同き十二年閏四月八日、御年三十四歲にて世をはやくし玉ひぬ、
- 三河國產見 — 底本のまま。結城秀康の出生地は通説では遠江国敷知郡宇布見村(中村氏屋敷)で、「三河國」は底本の誤記とみられる