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越前

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지명 13 12 9 8 6 6 4 3 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1

三河守殿は、德川殿第二の御子、御母は家の女房、いさゝかゆゑ有て、三河國產見1といふ所にて生れ給ひ、德川殿御子ともし玉はず、本多作左衞門重次とりて養ひ參らせ、御名をば於義丸殿と申奉る、御兄岡崎の三郞殿、如何にもして、父上の見參に入ればやと思召し、於義丸殿三歲の御時、德川殿岡崎の城に入らせ玉ふこと有りしに、かねて能く敎へ參らせ、殿の渡らせ給ふほとりの明障子、引うでかし、父上〓〓と聞え給ひしに、德川殿はやく心にさせ給ひ、御座を立たせ給ふ所を、三郞殿御袖を扣へたまひ、信康が弟の候を、今日見參に入ればやと宣ふ、深く恨みいきとほり給ふ御氣色見えければ、此上は見參無くては事あしかりぬと思召され、德川殿再ひ御座につかせ玉ふ、三郞殿頓て於義丸殿の御手を引て參り玉ひ、近う渡り給へとありし程に、御膝の上にかきすゑ玉ひしかば、三郞殿歡ばせ給ふこと斜ならず、かくても猶重次が許にぞ、ひとゝならせ玉ひける、三郞殿うせ給ひて後は、德川殿此人のましますを、賴もしき事に思召す、天正十二年冬、豐臣秀吉北畠殿につきて、御子一人、養君とし奉るべきよしを申さる、德川殿異父同母の御弟、三郞四郞殿をのぼせ給ふべしとありしに、御母上ゆるさせ給はねば、力なく、於義丸殿のほらせ玉ふべきに定り、この年十二月の末、大坂に趣かせ玉ふ、秀吉深く悅ひ、やがて元服の儀行なはれ、羽柴秀康と名のらせ、河內國にて所領參らせ、一万石明る十三年七月十一日、みづから關白し給ふとき、秀康朝臣御年十二歲なるを、四位の少將兼三河守になさる、抑關白守殿を養君とし給ひし事は、去りし天正十二年の春より、北畠殿と軍起りしに、德川殿、信雄の方人せさせ給ひし故、每度軍に利を失ひ、德川殿と戰ん事叶ふべからずと思召し返し、終に信雄と中直りす、これ偏に德川殿に親しうならんが爲なれば、彼御子養て、德川殿にも見參せんと謀らる、されど德川殿彼れの望に任せらるべしとも聞えされば、守殿うしなはれ給べきなど風聞す、德川殿此よしを聞召し、初め秀吉が望みしによつて、我子を與へぬ、彼子今は秀吉の子にこそあれ、家康が子にあらず、秀吉の子殺さんに、家康何とか思ふべきと、驚かせ給はず、秀康の御母お万どの、後に長勝院といふ深く是を歎き、此上は都にのぼり、兎にも角にも、守殿とこそ一所にならめとて、迷ひ出玉ふに、村田意竹入道、かひ〱しく、御供して、都にのぼり、守殿の御館に入れまゐらす、同き十三年の十二月、北畠の使として、羽柴下總守勝雄、土方勘兵衛雄久、德川殿に參り、殿は關白殿と年比の御恨あるにもあらず、一日信雄が賴み參らせ候に依て、御合戰に及ひき、信雄だに既に關白殿と中直りしつ然るに信雄が故を以て、兩家長く仇結ひ玉はん事、返す〱も歎きいりぬ、あはれ、東西御和睦あらんには、信雄が幸ひ何事か是に過んやと申さる、御許容の御氣色もなくて、使をば返されたり、明る正月二十一日に、下總守勝雄、また關白の御使となつてまゐる、御物語の序に、殿は久しう都の方は御覽せぬにて候、今は都のやうも、昔には事かはつて侍れば、且は御心をも慰められんがため、且は秀吉御父子にも御對面のため、御上洛あるべうもや候と申ければ、家康いま秀康に對面して何事をか語らふべき、且彼父の關白殿にだにも、參會に及ぶべからず、まして其公達に於てをや、家康信長の御時、都に登りて、見つべき所をば皆見つ、都戀しう思ふ所もなし、鷹臂にし狗曳かせ、野くれ里くれ狩くらす、何事の慰みか、この慰みに代ふべき、彼につき、是につきて、都に登らんともおほえず、たゞし秀吉みづから當時朝の御覺え、世のなびき從ふを恃みて、家康をも門下に伺候させんずるなど思て、上洛を催されんには、汝たゞ眞直に申せ、家康また思ふ所ありと仰せられしかば、勝雄大に恐れて、秀吉いかでさる事を思ひ玉ふべき、是はたゞ勝雄が存ずる處を、申たるに候とて、頓て御暇申て罷歸る、秀吉この由を聞玉ひ、とやせん、かくやすべきと案じわづらひ、きつと案じ出して、御妹君を德川殿の北の方に參らせらる、此上は、關白に見參有べしと聞えしかば、御家人等が心を安んぜんが爲、都に御逗留の程、其國にとゝめさせ給へとて、大廳を下し給ひしによつて、やがて都に登り給ひぬ、十五年の春、參河守殿御年十四歲、關白殿と共に、筑紫に渡り、一方の大將にて、日向國を平け、十六歲の御時、伏見の馬場に出で馬めされしに、殿下の御厩の預り、守殿と爭ひて馬を馳せ、頗る無禮に及びければ、馳違ひさまに、御刀を拔て、首を中に打落し給へば、爰に有合ふ關白の御家人等狼籍出來ぬとひしめく、守殿馬かけすゑ、はたと睨らまへ、やあ如何に殿下の御家人たらんものが、秀康と爭て、馬はせ、且は無禮をいたすべきやうやはある、あしうふるまつて、かたがたも過ちし、秀康怨むなと仰ければ、恐れて近づくものあらず關白此よし聞し召、秀吉が子に向て、無禮せんやつ、其罪死に當れり、あつはれ、秀康は心剛なるのみならず、はやわざも、人にずぐれたんなど、却て御感に預り玉ふ上は、何の御咎もなし、同き十八年の春、下總國の大名結城右衞門督晴朝、家人多賀谷安藝、使として、晴朝年既に五十に餘りて、いまだ家つがすべき男子なく、たゞ獨の娘あり、實は、晴朝の孫女にて、一族水戶但馬守が娘、是即忠直卿等の御母なり、あはれ殿下の御一族を賜て、聟君とし、我家を讓らばやと望む、關白殿悅ばせ玉ひて、於義丸を下すべしと仰ありしに、使者申次の人に近づきて、いづれの御事にわたらせ給ふにやといひしに、關白殿大きなる御聲にて、秀吉が子に、何條疑かあると、仰られしかば、愼みて仰せ承て下る、今年關白殿、北條を打亡し、まづ守殿を結城の館に入れまゐらせ、自らも彼館に至り、泊らせ玉ふこと三日を經て、奧に下らせ玉ふ、同き八月六日、晴朝守殿に家ゆづらる、是より結城殿と申し、十万千石の地、領せらる文祿の初より、朝鮮の事起る、肥前の名護屋に陣し、同三年結城に歸り、また伏見大坂に御館搆へて移り住み、其後參議に任し、太閤薨し給ひし後、宗徒の大名石田治部少輔三成を討んとす、德川殿人々を制し玉ひ、三成職解て、おのが城に籠居すべきに極る、猶路の邊れぼつかなしとて、守殿して送られしかば、三成難なく近江國佐和山の城に入る、此年九月、德川殿重陽の賀をせられんが爲に、大坂に至らせ玉ふ、大坂の家人相謀て、うしなひ申さんとの結搆ありと、告け申ものあり、此時守殿伏見の城に留守せさせ給ふ、伊奈圖書して、御家人等盡く參らせらるべきよし仰つかはさる、御家人等聞もあへず、鞭鐙を合せて、馳せ參る、大番の侍六番が其內、二番は既に御供に參る、殘る所の四番をも、皆まゐらすべしとありしをば、守殿とめ置かれて、御運傾かせ給はんには、たとへ何百万騎を參らすとも、叶はせ給ふべからず、もし御大事あらんには、かくこそ仕るべけれとおもひて、大番の侍をば參らせず候とて、御勢配のやうを、一々に書記し、伊奈に給て歸されたり、德川殿、あつはれ參河守は、父には生れまさりけりと、御感淺からず、明る年の秋、德川殿、奧の景勝中納言、御誅伐の時に上方の早馬來て、大坂の兵起りぬと申す、御方の大名小名、小山の御陣に集て、軍評定す、先づ此所より引返して、上方に向はせ玉ふべきに議定す、德川殿、本多佐渡守正信を召され、家康西に向はん時、景勝頓て跡を追て攻めのぼるか、さらずは又關東にや亂れ入らん、誰か此所に殘り留て、軍をばすべきと仰らる、正信誰とか更に申べき、守殿に若くことやあるべきと申、さらば召せとて召す、守殿御參りあるに、正信むかひ參らせて、いかに守殿、天下の安危は、今日に決し候ひぬ、能く心して物申させたまへと申て、御跡に隨て御前に參る、德川殿東西の軍の事、御物語有て後、おこと我が爲に此所に留りて、關東を鎭めなば、我はまづ上方に向て戰んとおもふは如何にと仰ければ、守殿御氣色あしう成て、秀康いかでか御後に殘り候べき、只いづく迄も、御先をこそかけ候べけれと、のたまへば、上方の軍勢は、みな國〱の集り勢、何十萬騎ありとて、何程の事かあるべき、抑上杉が家は、累代坂東の大將にて、中にも故輝虎入道が時に至り、弓矢取て天下に肩を並ぶる者すくなかりき、されば其子として景勝、又幼弱の昔より軍の中に成長し、年既にふけぬ、當時かれに向て、たやすう軍せんもの多からず、あつはれ、おことがためには、能きかたき、海道に向ひ、打込の軍せんよりは、おこと一人こゝに留て、軍したらんは、且は弓矢とつての面目、何事の孝行か、是に過べきと仰ければ、やゝ有て、守殿軍は必勢の多少によらぬと承る、上方の大將にも名を得たる輩少からず、勢のほども又さこそ多からめ、秀康いまた軍には慣らはねども、景勝一人が勢と戰んに、何程の事か有べき、あはれ大將をたに御許しあらんには、此所にや留り候べきと、宣ひしかば、正信聞きもあへず、いしくも仰せ候ものかな、關東を鎭め給はんには、大將を參らせ給はんこと、仰にや及べきと申ければ、德川殿世に御嬉しげにて、頻りに御淚をながされ、みづから御鎧一領取出して、抑此鎧は、家康が若かりしより、身に附て、終に一度の不覺をおほえず、父が嘉例に准へて、こたび奧方の大將して能き軍し、天下に名をあげ玉ふべしとて、參らせらる、守殿も、御心地よげに御暇申させたまひ、下野國宇都宮に陣取て、關東を鎭めたまひしに、上方の軍破れて後、景勝も降を乞ひぬれば、伏見に參り給ひけり、此度の勳賞に越前國賜て、明る慶長六年の五月、福井の城に移り給ひぬ、六十七万石を領し給ふ、按するに、守殿宇都宮より江戶に入せ玉ひ、夫より伏見に參り玉ひ、越前を賜て、伏見より越前へ入らせ玉ひしなり、北庄を改めて福井と名つけ、城築かれしなり、其後從三位中納言に至て同き十二年閏四月八日、御年三十四歲にて世をはやくし玉ひぬ、
  1. — 지면 그대로. 結城秀康의 출생지는 통설 遠江国 敷知郡 宇布見村(中村氏 저택)으로, 「三河國」은 저본 오기로 보인다
參議忠直卿は、中納言殿の御嫡子、童名は長吉丸、父の御跡つがせ給ひ、慶長十六年の春、將軍家の御前にて元服あり、御諱字賜はらせ給ひ、四位の少將兼三河守になさる、今年九月將軍家第四の姫君を北の方に參らせられ、越前の國に趣せたまふ、勝姬君と申、時に御とし九歲、一說に十二歲とも申す、同き十七年の冬、越前の國に事起りて、以の外に騷動す、まづ十月十九日、家老久世但馬守罪蒙て、本多多賀谷討手の大將承て、押よせ戰ふ、寄手討るゝもの二百餘人、久世が一族郞等百五拾人、枕を並べて打死す、明れは廿日、弓木左衞門腹切て死す、寄手討るゝもの三拾餘人、上田隼人竹嶋周防自害して、一族郞等をたすく、是は故中納言殿うせ給ひて後、宗徒の家人等二ツに成て、確執止む事なく、本多久世弓木牧上田岡部竹嶋などいふ七人の家老罪蒙り、岡部伊豫此よし訴んとて、關東に趣く、守殿驚き給ひ淸水丹後今村掃部して、岡部を召返さる、されども互の爭論止事を得ず、岡部又牧主殿と打連て、關東に參る、牧いかに思ひけん、道より高野山に趣き入道す、爰に於いて久世弓木うたれ、上田竹島腹切て死す、本多伊豆守富正は、彼七人の隨一なりしかど、罪ゆるされて、人質を給ひし上は、久世が討手の先陣を取りき、此時大御所關東にわたらせ給ひしかば、閏十月廿日召符を下され、本多淸水等關東に召され、十一月廿八日、兩御所みづから本多伊豆守淸水丹後今村掃部を召寄せられ、十二月二日、將軍家御裁斷有て、淸水今村遠流に處せられ、今村は奧州伊達政宗に預けられ、淸水は岩城鳥居左京亮に預らる彼國務、伊豆守富正たすくべき由を仰下さる、十八年の三月訴人再ひ起て、家人等また關東に參る、同き六月兩御所仰けるは、斯國中の靜ならざる事、偏に參河守が年いまだ若かりしが致す所なり、今よりは國務の事、富正が沙汰たるべしとて、富正が一族本多丹下成重に、丸岡の城賜て、彼家に附らる、成重は作左衞門重次か子、後に飛彈守に任す、丸岡は今村掃部か領せし地なり、十九年の冬、大坂の兵起りしかば、守殿北陸道より馳せ向ひ、明る元和元年五月七日の合戰に、眞田三宿を始て、三千七百五十首切て、眞先に城にせめ入、當時勳功の第一にて、閏六月十九日從三位參議になさる、勳賞と聞えたり、されども、此殿みづから功の高きに誇り、賞のひくきを怒て、我父大御所の長子として、天下をも讓らるべき身の、わづか國一つを領し、我又其嫡子にて家を繼き、かゝる大功なくとも、个程の官加階せざらんやと、のたまひて、日にそへてあら〱しき振舞のみ多くまし〱て、大御所かくれさせ玉ひし後は、天下に恐れ憚りたまふ人なく、明ても暮ても、酒と色とに酖けり、關東に參らせられん期、いたりぬれど、參らんともしたまはず、おとなどもの、色々に諫申によつて、力なく、國をば立て、道すがら鷹狩川狩に、面白き境にては、幾日も〱逗留し、又ある時は、俄に病氣とて引返し、國に歸り、少しも心に違ふ事あれば、男女にかぎらず、立ち所にみづから切て捨て給ひし者、いくらといふ數を知らず、夫だにあるを、天下既に弓を袋にし、劒を匣に納めて、世は泰平になりゆけど、此國には、やゝもすれば兵革起て、家の大名等を攻殺されし事、度々に及ふ、
○故中納言殿の家人永見右衞門尉と申は、父は中務といひ、母をば池鯉鮒殿と申て、大御所の御從弟のよし申しゝなり、されば、右衞門尉母と共に、彼家に仕へて、後は一萬七千石の地を領す、彼れが廿四才の時、中納言殿失せ玉ひしかば、冥途の御供仕らんとて、腹切て死す、其子をも右衞門尉とぞ申ける、此比三河守殿御子ほしがらせ給ひしかば、或人永見が母は子すでに產て年いまだ若く、しかも美人の聞えあり、如何さまにも召さるべうもやと申す、頓て御館に參るべしと御使たつ、彼母大に歎き、あはれ我夫は弓矢取る身のならひなれば、さばかり惜しかるべき命、君に參らせぬ、たとへ我れ子なくして、只ひとり住む身なりとも、いかで再ひ世の人に見ゆべき、ましてかく父が家繼く子あり、如何におもてなく、御館には參るべき、かゝる憂きこと聞くも恥し、尙さまかへぬ咎なりけりと、やかて髮そりおろして、尼になる、守殿此よし聞召し、我が仰に隨はさらんやつには思ひしらすべき事ありとて、其子右衞門を誅せらるべきに極る、永見が手の兵はせ集りて、彼家に立こもる、さらば軍兵をさし向け攻破て、一人も殘さず首を刎ぬべしと怒り給ひしかば、御家人等東西にはせ違ひ、南北にかけめぐつて、上を下へと、ひしめく、本多丹波守大に驚き、かくては唯此國の騒きのみにあらず、事隣國に聞えなば、以の外の大事なりとて、討手の人々かたく制して、我身ひとり永見が家に行むかふ、永見が家子郞等、本多殿は能き敵、此人壹人を打取て、御腹召れんは、寄手何拾萬騎を打ち玉ひしよりも、なほ勝るべしと、長刀ひつさげて出んとす、右衞門おし止め、其事ゆめ〱然るべからず此人を助け置てこそ、我罪なき由、世にも披露は有べけれとて、對面に及ぶ、本多何とか云ひたりけん、其日より、永見が家の守りもおこたりけり、年旣に暮て、翌日は元日といふ夕になりぬれば、彼の手の者共、年迎ふべきいとなみに、おのが家々に歸りぬ、時こそよけれといふまゝに、混甲二三百騎おしよせ、散々にせめ戰て、盡くに打取ぬ、其後三位中將殿の時に永見が家亡すべからずとて、豐後にて生れ給ひし御弟二人ながら、永見と名のらせ、彼家を繼せらる、此外にもかゝるたぐひ猶あるべしと
將軍家も故中納言殿の御事を思召し、且は聟君にておはしませば、如何にもして彼が心の改り給ふ樣に、思召わづらはせ玉へども、日にまし月にまさりて、惡行は超過しぬれど、能事は聞えず、此上は力なしとて、元和九年五月十二日、豐後國萩原といふ所に流されて、竹中采女正重次にぞ預らる、五千石を附らる、重次は當國府內の城領したり、頓て入道せさせ給て、一伯と號し給ふ、此所も猶人近しとて、今の所よりは三里餘を隔たる、津森といふ所に徙され玉ひぬ、此後重次も罪ありて誅せられしかば、寛永十一年の事なり日根野織部正吉明、預り人となり、廿五年の春秋を配所の月にながめわび、慶安三年九月十日と申に、御年五十六歲にて空しくならせ給ひけり、御子多くおはします、嫡男は仙千代丸越後三位中將殿の御事なり、其次は高松殿の御息所、其次は九條關白通房公の北の政所、是皆大相國家の台德院殿の御事、後みな是にならふ、御外孫、是より下は、皆配所にて設け玉ひし所なり、兄は永見市正長賴、弟は同き大藏長良と申し、二人ながら三位中將殿の御家人となる、今一人は、かの家の老小栗美作正矩が妻なりけり
三位中將光長卿御父忠直卿の御事ありし時、わづか十歲になり玉ひしに、越後國に遷されて、高田の城を御座所と定めらる、廿四万石に、高田殿の御領二万石添て、廿六万石餘、是より御母上を高田殿とぞ申ける、寛永元年六月仙千代殿を連れ參らせ、關東に下り給ひ、同き十二年二月廿一日に、かくれさせ玉ひけり仙千代どの御成人有て、寛永六年四月廿三日、將軍家の御前にて元服し、御諱字賜ひ、四位少將兼越後守になされ、慶安四年十二月廿五日、三位の中將になされ、其男德千代丸、承應二年十二月廿一日元服、御諱字賜ひ、綱賢と名乘、從四位下侍從兼下野守より左少將になされ、年四十二歲と申に、延寶二年正月晦日に世を早うし給へば、三位中將殿の家繼がせらるべき御子なし、御甥なればとて、永見市正が嫡子万德丸養て、延寶三年五月十八日將軍家の見參に入らる、同き十一月廿三日元服有て、御諱字賜り、綱國と申、從四位侍從兼三河守に任ず、
參議忠昌卿は中納言殿第二の男、童名は虎之助、慶長十九年の冬、御年十九歲にて、兄少將殿の手に屬し、大坂の城を攻め、明る元和元年正月十二日、四位侍從に任し、伊豫守を兼、此時に將軍家御諱字たまひしなるへし、今年夏、大坂の合戰にみづから高名し、手の者共に首五十七切らせて獻る、同二年、信濃國河中嶋の城を給、升二同五年越後國高田の城に移り、廿四万石寛永元年越前國に移る、五十二万五千石○按するに、忠直卿の御時は越前六十七万石と申、此度は大野丸岡等の地のぞかれしとなり同三年參議正四位の下して、正保二年八月朔日、四十九歲にて卒し、嫡子萬千代丸跡を繼き、此年十二月晦日元服し、御諱字賜り、光通と名乘、從四位下侍從兼越前守より左少將に至り、延寶二年三月廿四日三十九歲にて卒し、家繼べき子なしとて弟なりける兵部大輔昌親を世嗣とす、昌親童名辰之助、忠昌卿の三男、父卒して後、吉江の地を分領す、二万五千石從五位下兵部少輔より從四位下して、大輔になり、延寶二年五月六日、光通朝臣の家を繼き、四十七万五千石を領し、本領の內五万石、兄中務大輔か領のぞきし故な同十二日、兄の中務大輔昌勝の嫡子仙菊丸を養て子とす、今年侍從になされ、同四年十二月廿一日に國を讓る、其子從四位下侍從兼越前守綱昌童名は仙菊丸、實は中務大輔昌勝の男、叔父昌親の養子と成て延寶三年十一月廿三日元服し、御諱字賜ひ叙任の事あり同四年十二月廿一日讓を受く
備中守直堅童名は權藏、越前守光通朝臣の男なり、如何なるゆゑ有けん、成人に至りぬれど、父子の對面に及はざりければ、越前國を忍び出て、一族但馬守直良を賴みて關東に下り、程なく父の朝臣卒しで後、直良故越前守の男なる由を訴ふる旨ありしかば、延寶三年五月十八日、將軍家に召る、今年十二月叙爵し、同五年十一月三日祿下し賜ひぬ
左少將直政朝臣は、中納言殿の第三の男、御母は家の女房、中納言殿越前の國賜て、伏見の御館より首途し入部し給ひし時、近江の中河內といふ所にて、生れ玉ひければ、河內丸と名付、越前に入給ひて、國松丸と改め、御寵愛淺からず、國松殿十四歲の時、大坂の軍起る、御母上、國松殿を近づけ參らせ、殿はまさしき故中納言殿の御子、大御所の御孫にてわたらせ玉ふ、梅檀は二葉よりかうばしとこそ承れ、弓矢取る家に生れ、既に十歲にあまらせ給へば、今度いかなる高名をも極めて、大御所の御感に預らせ玉へ、相構て、きたなびれて、人にうしろ指なさゝれ給ひそ、御父は皆大將なれど、賤しきものゝ腹に宿らせ玉ひしゆゑに、かゝる不覺もあれなど云はれ給んこと、口をしかるべき御事に候ぞや、自ら如何に女なりとも、させる高名をもせさせ給はぬなど、傳聞はべらば、生て再ひ逢まゐらすべしとも覺えずと、淚と共に、かきくどきて、軍の御裝ども、かひ〱しく取したゝめ、出しまるらせけり、慶長十九年十二月四日のあした、越前の軍勢、加賀の兵と先を爭て、眞田が城を攻めし時、國松殿眞先を懸け玉ひ、天下に名を揚け給ひけり、明れは元和元年五月七日の戰ひにも、みづから太刀うちし、首取て獻らる、同九年越前國大野の城を給ひ、五万石○是れより先は、大野のおく木の本といふ所三万石舍兄よりわかたる、寛永十二年信濃國松本の城に移り、七万石十五年出雲國を給、十八万石隱岐の國を預らる、一万八千石初め出羽守從四位下より、侍從を歷、左少將正四位下に至て、寛文六年二月三日、六十六歲にて卒せらる、嫡子綱隆、童名久松丸、慶安四年十二月廿六日元服し、御諱字賜ひ、從四位下の信濃守に任し、家を繼ぎし年、侍從兼出羽守になる、延寶三年閏四月朔日に卒す、年四十五歲、其子綱周、延寶元年十二月元服し、御諱字を賜ひ從四位下甲斐守に任し家繼ぎし年に、侍從兼出羽守に成る、
侍從直基朝臣は、中納言殿の第五男なり、生れ給ひしより、左衛門督晴朝とりて養ひまゐらせ、結城五郞八と名付、片粕の舘に、ひとゝなりたまひぬ、片粕は、越前の地の名晴朝の住玉ひし所なり晴朝年老て、中納言殿におくれ參らせ、深くなげき玉ひけれど、此御孫を育て參らするに憂きを忘れて、明し暮し給ひしが、慶長十九年七月廿日、八十一歲にて卒し玉ひぬ、抑結城の家と申は、藤原秀鄕十一代の後胤、結城七郞朝光より始り、晴朝は朝光が十六世の孫なりけり、一說に、朝光い右大將賴朝の御子とも申なり、世々下總國結城の地を領し關東八家の一つなり、晴朝に至り、世嗣なく、豐臣太閤の仰にて、秀康卿を養て世嗣とす、秀康又この直基朝臣して、其家を嗣がせ給ひけり、寛永三年八月十九日、從四位下の大和守になされ、結城を改ためて、松平と名乘り、其後侍從に任し、寛永十二年十一月廿二日越前の大野の城を給、五万石〇是より先兄豫州より私に所領の地分ち與ふとなり、正保元年正月十一日、出羽國山形の城に移り十五万石、一說此時は十万石、慶安元年六月十四日播磨の姫路の城に移て、十五万石なり程なく八月十五日四十五歲にて卒す、其子息藤松丸家を繼き、明る慶安二年六月九日越後の國村上の城に移、本庄とも云なり、知行元の如し、成人して、從四位下の大和守より侍從にいたる、寛文七年再ひ姫路の城に移る、
侍從直良朝臣、童名長光丸、中納言殿の六男なり、寛永三年八月十九日、從四位下土佐守に任し、正保元年正月十一日、越前大野の城を給ひ、五万石を領す、これより先は、舍兄私に所領地をわかつ其後侍從兼但馬守に任し、延寳六年六月廿六日七十五歲にて卒し、子息若狹守直明、寛文九年十二月廿五日叙爵、延寶三年十二月廿七日從四位下に叙し、父卒して家を繼く、