內膳正源家廣は、出雲守殿長親主第二の御子、內膳正信定四代の孫、初め信定參河國櫻井の城に住す、子孫櫻井松平と稱しけり、信定後に上野の城に移り住む、其子內膳正清定、其子監物家次、其子與一郞忠正、世々武功を顯はし、忠政に至て、三河の野田長篠、遠江の懸川近江の姉川等の合戰に、終に不覺の名を取らず、天正五年七月廿日、三十四歲にて卒す、忠正初め德川殿異父同母の御妹を迎へて、家廣を設けたり、德川殿關東に移り給ひし時、家廣上野國松山の城1を給ひ、一万石慶長六年二月濱松の城を給ふ、此年御勘氣蒙て、六月十四日、忽に自害して死す年廿五歲、世嗣なければ、家絕たり、櫻井の嫡流此時に斷絕す、案ずるに家老堀勘兵衛を誅して、御勘氣を蒙りしといふ、
- 上野國松山の城 — 底本のまま。松平(久松)家広が関東移封の際に受けた松山城(1万石)は武蔵国松山城である