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松平(櫻井)

第二 · 段落 2 · 780520 26コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

人物 5 4 4 3 3 3 3 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 4 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

內膳正源家廣は、出雲守殿長親主第二の御子、內膳正信定四代の孫、初め信定參河國櫻井の城に住す、子孫櫻井松平と稱しけり、信定後に上野の城に移り住む、其子內膳正清定、其子監物家次、其子與一郞忠正、世々武功を顯はし、忠政に至て、三河の野田長篠、遠江の懸川近江の姉川等の合戰に、終に不覺の名を取らず、天正五年七月廿日、三十四歲にて卒す、忠正初め德川殿異父同母の御妹を迎へて、家廣を設けたり、德川殿關東に移り給ひし時、家廣上野國松山の城1を給ひ、一万石慶長六年二月濱松の城を給ふ、此年御勘氣蒙て、六月十四日、忽に自害して死す年廿五歲、世嗣なければ、家絕たり、櫻井の嫡流此時に斷絕す、案ずるに家老堀勘兵衛を誅して、御勘氣を蒙りしといふ、
  1. — 底本のまま。松平(久松)家広が関東移封の際に受けた松山城(1万石)は武蔵国松山城である
左馬允源忠賴は、監物家次が二男、與二郞忠吉が二男なり、忠吉の兄與一郞忠正死して後、德川殿の仰として、兄の妻迎へて伊豆守信吉、左馬允忠賴兄弟の子設たり、此二人の子、內膳正家廣と、異父同母の兄弟にて、皆是德川殿の御外甥也、又是三人の母上、後に保科か妻となり玉ひし也、伊豆守信吉は初め勘四郞と申して、藤井の家を繼く、別に傳二男忠賴、父忠吉が家を繼く、關東に移り給ひし時、武藏國八幡山の地を給ひ、一万石關が原の戰に、岡崎の城を守り、また犬山の城を守り、又美濃國金山の城を守る、此年慶長五年の冬、終に金山の城を賜ひ、本領と共に、合せ領す、金山一万五千石、八幡山一万石、合て二万五千石なり、明れば六年の夏、濱松の城に移る、內膳正家廣亡ひし頃、五万石を領すといふ十四年九月關東に伺候し、水野市正が宅に酒宴して、久米左京次が爲に差殺さる、子息等幼なくて、所領收公せらる、嫡子大膳亮忠重時に七歲、關東に召され、武藏國にて所領給ひ、八千石成人の後、元和八年上總國佐貫城を給ひ、一万五千石寬永九年田中の城に移り、二万五千石同き十一年地加給ひ、五千石合て三万石を領十二年十一月廿二日掛川の城に移り、四万石十六年十一月信濃國飯山の城に移る、所領本の如し此年十二月十二日卒す、三十九才、一說に、二月十二日卒すと、然らば飯山へ移りしは、子息家續し初か、世に行はるゝ松平系圖には、飯山へ移りて卒すと載す、寛永の日記城主譜にもこれに同し、覺つかなし、その子遠江守忠親父につぐ其子筑後守忠保