甲斐守藤原直澄は、上杉彈正少弼朝定が後胤民部少輔忠澄の男なり、初め朝定が曾孫中務大輔滿定都に在て室町殿に仕へ、其子修理亮政定所緣に就て今川刑部大輔範政がために養れ、駿河國に下向し、改め稱して加々爪と名のる、其子右京亮忠定遠江國山名郡新池鄕を領す、子孫是を傳領して、備前守政豊に至る、永祿十一年德川殿、遠江國に入り玉ふ時、政豊、最初に御方に參りしかば本領を下し賜ひ、其子備前守政尙、尾張の國長湫の軍に高名し、小田原御陣に從ひ、常に近く召仕はる、其子民部少輔忠澄、慶長四年中納言殿の大相國家の御事御前にて元服し、御諱字を賜り甚十郞とめされ、大坂の軍の時、御使番を承り、自ら戰て首取て獻る、其後御目付より御普請奉行を歴て、寛文十五年1五月大目付となつて、同十七年六月十三日、職免され、明れば十八年五十六歲にして卒す、所領九千五百石に至る、直澄初め寛永八年叙爵し、同十年八月五日、御小姓組の組頭になつて、十五年十二月五日、同き番頭に昇り、慶安三年十一月十九日、御書院番頭に移り、承應四年九月十五日大番の頭に遷る、寛文元年十一月九日、寺社奉行職に補せられ、此時一万石を領す、同八年十二月廿六日、所領加らる、三千石十年十二月十一日、御不審かうむる事あつて、職免されて蟄居す、其後御免蒙て出仕しけるが、延寶七年六月十八日致仕す、
- 寛文十五年 — 底本のまま(ブラインド判読2回一致)。寛文は13年(1673)までなので底本の誤記の可能性。未確認