인물 색인 › 細川藤孝
細川藤孝
본문 표기 藤孝・入道・藤孝入道・兵部大輔藤孝・幽齋・此人・細川兵部大輔入道玄旨・長岡兵部大輔・玄旨・二位法印・藤孝入道玄旨・細川三位法印・玄旨入道・細川二位法印
永井 第五 · 2
細川 第七下 · 35
- p001…陸奧守義家朝臣四代の孫、廣澤判官代義實が二男、細川二郞義季十二代の後胤、兵部大輔藤孝が嫡男なり…
- p002…世に傳ふる所、藤孝實は公方の御子なりしを三淵伊賀守申乞て、佐々木が一族長岡の家繼せければ、…
- p002…實は公方の御子なりしを三淵伊賀守申乞て、佐々木が一族長岡の家繼せければ、長岡兵部大輔と申す、室町殿に咫尺して、奉公の勞を積みしかば、細川の管領、家號を讓りて…
- p003…藤孝實は三淵伊賀入道宗薫が子、細川播磨守元常に養はれ、公方萬松院殿光源院殿兩…
- p005…せられ給ひ、御弟一乘院門跡覺慶をば取籠め奉り、鹿苑寺の周暠は討れ給ひぬ、兵部大輔藤孝が謀にて、一乘院殿、春日山を踰て、近江國に落ち給ふ、藤孝御供に侍ひて、や…
- p005…給ひぬ、兵部大輔藤孝が謀にて、一乘院殿、春日山を踰て、近江國に落ち給ふ、藤孝御供に侍ひて、やがて還俗させ參らせ、義昭と申し奉る、當國佐々木義賢入道承…
- p005…供申し、朝倉左衞門督義景を御賴ある、これも、はか行くべしとも見えざれば、藤孝上野中務大輔清信と共に、御使となつて、美濃の國に趣き、織田彈正忠信長を賴…
- p005…田彈正忠信長を賴ませ給ふに、信長畏りて、御使と共に御迎をまゐらせければ、藤孝御供申して、美濃國へ渡らせ給ふ、信長程なく御敵を平けまゐらせ、義昭再び御…
- p006…元龜四年七月十日、信長城州の內、桂川の西地を以て藤孝に領せしむ是より長岡と名のる、これ其所領の地名によりてなり…
- p007…を御用ゐあつて、信長が功を忘れ給ひ、彼の朝臣を失ふべきよしを思召し立つ、藤孝が諫め參らする事共、更に用ゐ給はず、信長、われを失ふべしと軍起させ給ふと…
- p007…はず、信長、われを失ふべしと軍起させ給ふと聞て、軍勢餘多引具して上洛す、藤孝も信長の陣に參るとて、大津にて行合ひ、打連れて都に入る、將軍御軍に打負け…
- p007…長失ふべしと、御結搆ありしかど、何の御恙なく、都を御開きありし事、內々は藤孝が信長に從ひて、とかく拵へし故なりとぞ聞えける、是れより藤孝信長に隨つて…
- p007…し事、內々は藤孝が信長に從ひて、とかく拵へし故なりとぞ聞えける、是れより藤孝信長に隨つて、勝龍寺の城に住し、一方の大將して、度々の武勇を顯す、忠興童…
- p007…に御致書賜て賞せらる、天正六年彼の父子三人が、年來の功を賞して、丹後國を藤孝にぞ賜りける、此後は忠興常に織田殿父子の軍に從つて、此處彼處に戰ふ、明れ…
- p007…、此處彼處に戰ふ、明れば十年の夏、織田殿明智光秀が爲めに討れ給ふ、初より藤孝は丹後にあり、忠興この時山陽に向はんとて、本國にぞ歸りたる、明智は忠興が…
- p007…を合せて、光秀を誅すべきよし牒狀して、軍勢を催す、程なく光秀誅せられぬ、藤孝都に上りて、織田殿父子の御跡を弔ひ奉る、これより入道して玄旨と稱し、幽齋…
- p007…誅せられぬ、藤孝都に上りて、織田殿父子の御跡を弔ひ奉る、これより入道して玄旨と稱し、幽齋とは號しけり、志津岳の軍に、忠興秀吉に方人し小牧の陣に、北畠…
- p007…藤孝都に上りて、織田殿父子の御跡を弔ひ奉る、これより入道して玄旨と稱し、幽齋とは號しけり、志津岳の軍に、忠興秀吉に方人し小牧の陣に、北畠の勢と戰ひ、…
- p007…忠興秀吉に方人し小牧の陣に、北畠の勢と戰ひ、紀伊の根來を攻められしには、藤孝忠興父子向へり、秀吉關白に任ぜられし時、忠興侍從從五位下し越中守を兼ぬ、…
- p011…しき者共に、兵をば少し附て、豐後の國へ下して、杵築の城を守らす、丹後には藤孝入道に年老たると、幼けなき者共とばかり殘り居て、はか〱しく軍すべき者多からず…
- p011…、幼けなき者共とばかり殘り居て、はか〱しく軍すべき者多からず、されども、入道さる古兵にて、少しも騷く氣色もなく、宮津の城を棄てゝ、田邊の城に立籠り、…
- p011…色もなく、宮津の城を棄てゝ、田邊の城に立籠り、敵おそしと待居たり、抑も此入道と申すは、弓矢打物取て、堪能なるのみにあらず、さらぬ小藝にだに達せずとい…
- p011…多才多能の人なりけり、中にも敷嶋の道に深くすぎて、古今和歌集の秘訣、悉く此人に傳れり、されば此たひ我身うち死したらん後、此道長く絕えなん事を悲しみ、…
- p012…軍勢、雲霞の如く押寄せ、十重廿重に取卷きて、火水になれと、攻めけれども、入道ちつともひるまず、防ぎ戰ふ、かくては此城一時に攻め落さるべうも見えず、烏…
- p012…心をも知れる人、忽に失せなんこと、尤も朝家の歎きなり、如何にもして、彼の二位法印が恙なからん樣を計るべしと宣られたり、輝元を初として、奉行等謹て承り、急…
- p012…輝元を初として、奉行等謹て承り、急ぎ早馬を立てゝ寄手の軍兵を止む、元より入道は今を最期と思ひ切て、戰ひし程に、寄手たやすう引て歸らん事、叶ふべからず…
- p012…みて、丹後の國に下向あつて、速に勅に應じて、其城を去るべしとありければ、入道畏りて、普天の下、率土の濱、王土王臣にあらずといふ事なしと承る、ましてや…
- p012…る、ましてや此微賤の身、かく眼のあたり寵渥の辱きを蒙るをや、さりながら、入道が年若き時ならんには、弓矢とる身の習なり、敢て死を白刄の際に决して、深く…
- p013…忠興は父の入道が如何なる勅命なればとて、城を去りたる事の口惜さよ、又嫡子與一郞が妻の、…
- p013…この時草創の業は、旣に成りぬれども、柳營の儀は、いまだ備らず、こゝに彼の藤孝入道は、世々の公方に仕て、しかも當時の有職なり、丹後の國を出でしより、都にの…
- p013…しより、都にのぼり、仁和寺の邊に、幽かなる栖居して、籠り居たり、德川殿、此人に就きてこそ、前代の事をも問ひ、當世の禮をも講ずべけれとて、永井右近大夫…
- p013…として、武家の規式、悉く受け傳へさせ給ひたり、されば當世の禮節は、內々此入道の定め申されし事共多かりしとぞうけ給はる、藤孝入道玄旨、慶長十五年八月…
- p013…れば當世の禮節は、內々此入道の定め申されし事共多かりしとぞうけ給はる、藤孝入道玄旨、慶長十五年八月廿日に卒すといふ、但しその行年幾つといふ事詳らかな…
- p017…玄蕃頭源興元、藤孝入道が二男なり、童名は頓五郞、生年十四歲にして、兄忠興と共に、河內の國片岡の…
- p017…河內の國片岡の城の先懸し、能き首取て城を落せしより、一生の高名、數多し、藤孝丹後に移りし時、父に属して峯山の城にあり、小田原滅ひし時、兄忠興と共に韮…
小出 第十上 · 1
- p004…辰と記す其跡にして石田三成が計ひにて、秀賴の仰と稱して、德川殿の御方人細川三位法印が丹後の國を攻むべしとて、丹波但馬の軍勢を向けらる、大和守吉政其催促に隨…
谷 第十上 · 3
木下 第十上 · 1
- p004…通し、關が原の戰終て後、同十月細川越中守忠興と共に、丹波國に發向し、舅の藤孝入道が城を攻めし大將小野木縫殿助公鄕が福智山の城を攻落す、明れば六年、所領加…
建部 第十下 · 2
색인은 본문을 읽고 사람·지명 등에 개체 ID를 붙인 것입니다(표본 점검 정밀도 약 98.6%). 같은 이름의 다른 사람은 괄호로 구분했고, 지면 표기가 다른 비정은 문맥 주석에 적었습니다. 자세히