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가문 목록 › 第十下 › f145

建部

第十下 · 단락 6 · 780525 35코마 R부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 10 9 5 4 3 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 6 4 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

丹波守源政長は內匠頭光重の子、壽德入道が孫也、入道生國は近江の者、宇多源氏の流、若かりし時兄の敵討つて、其事世に聞えたれば、織田殿に召仕はる、江州守山にて五百石を領す豐臣太閤の世に及て、若狹國の政務を奉り小濱の庄に住す、其後又攝津國の事を奉行して尼崎の城に在り、當時是を郡代と云ひき入道さる不敵者なりしかば、軍粮の轉漕、多くは入道に仰せて沙汰せらる、年老い致仕せる後、其職務を以て嫡男光重に讓る、關が原の戰の時、光重大坂の催促に隨ひ毛利長曾我部長束等の人々と、伊賀の國を經て伊勢の國に向ひ、安濃津の城を攻む、富田信濃守知信散々に戰ひ、味方攻めあぐんて見えし所に、光重が兵眞先に第二の城に攻め入て、終に城をぞ降しける、此時建部が侍田中甚九郞、一番に城に乘て吾主の幟を立て、光重一番の由を名のる、池田伊豫守秀武が兵續て攻入ると云々、此事關が原誌記と云ふ書に見えたり、其他の記には見えず、
慶長十二年九月廿日壽德入道七十二歲にて死し、同き十五年五月廿七日內匠頭光重三十三歲にて卒す、光重細川二位法印に幽齋の事刀を相する事を傳へて當時無双の名を得たりき、光重が卒せし時、息男纔に八歲になりしかば父祖の領、収公せらるべしと聞えて、輝政朝臣歎き申されし旨ありしかば、大御所大坂に仰せられし事に依て、終に本領を安堵し尼が崎の城を賜て、三十郞政長と申す、大坂の軍起りし時政長生年十二歲、關東の御方として大坂の催促に隨はず、其居所無碍に大坂に近くして、又四國九國の通路に當れり、纔の勢を以て此城を守らん事叶ふべからずとて、外戚に付て所緣あれば、武藏守利隆左衞門督忠繼等の朝臣に加勢を乞ひ、近き邊りの人質共取て、背く奴原打平ぐ、かくて備前播磨の軍勢馳せ加り、大御所又松平主殿頭忠利に仰せて政長に加勢せらる、大坂の兵再ひ起るに至て、內藤紀伊守信政、仰を蒙て尼が崎の城に加勢す、軍終りし後、政長を召されて勳功の賞を行はる、一万石を給ふ
此時大御所の仰に、汝幼しといふとも能く承れ、此度の賞に一万石を充て行ふ事、郞從等は不足に思ふべけれど、我いまだ二十倍の恩を加へし事あらずと宣ひしとなり是は政長が父祖相傳の本領五百石たりしが故なり、
元和二年播磨國楫東郡の地賜て移る、一萬石同き五年福島左衞門大夫が國除れし時、宮内少輔忠雄して其國を受取らしむ、政長昔尼崎の城に籠りし時、忠雄の舍兄忠繼朝臣の加勢給はりし恩に報はんが爲、忠雄の手に屬して安藝の國に向はん事を望み乞ふ、御許を蒙りて七百餘人を引具し、廣嶋の城を受取て是を守る、寛文元年十二月廿八日叙爵し丹波守に任し、七年致仕入道して自得と號す、嫡男政明父に繼きし年十二月廿八日叙爵して丹波守に任し、同き九年十二月廿三日三十二歲にして卒す、舍弟政宇家を繼き此年十二月廿八日叙爵して內匠頭に任す、同き十二年、四月十八日政長入道自得、七十歲にして卒す、