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永井
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 永井直勝 29徳川家康 19長井時広 9池田恒興 8永井直吉 6豊臣秀吉 5徳川秀忠 5大江広元 4三浦泰村 4織田信長 4織田信雄 4安藤直次 4永井尚政 4長田広正 3今川義元 3徳川信康 3大江宗元 3池田元助 3本多正純 3永井尚征 3永井尚善 3松平広忠 2長田忠致 2大江音人 2
지명 摂津国大坂 5常陸笠間城 5美濃国関ヶ原 4三河国大浜 3関東 3京都 3三河国 2山城淀城 2駿河国府中 1駿河国 1相模国鎌倉 1越後国 1近江国安土 1伊賀国 1伊勢国 1尾張国長久手 1武蔵国 1朝鮮 1肥前国名護屋 1安芸国 1備後国 1常陸国 1常陸国柿岡 1常陸国土浦 1
夏目が記を案するに、德川殿仰に、長田は義朝を弑せし逆臣の名字なり、長田を改めよとありしかば、永井と改む、永井は大江の姓なれば、大江の家の紋一文字に三星をも許させ玉ひ、御普代の御家人、阿部伊豫守の聟になされたり、永井もと因幡守大江廣元の二男より出づ、長田は平氏なり、長田入道が兄、一說弟親致は入道が謀事に組せざりしかば、子孫恙なくて、長田を名乘しなりと云云、世に傳ふる所の記に曰く、平城天皇の皇孫備中守本主初て大枝姓を賜ひ、其子參議音人大江と改む、音人の七男式部權大輔千古が九代の孫、大膳大夫廣元、鎌倉の右大將家より三代の將軍に仕ふ、是れ永井毛利等の祖なり、廣元が二男永井左衞門時廣は、三浦若狹前司泰村が妹聟たるに因て、關東評定衆の中にして隨一の人なり、泰村が謀叛の時、其徒黨たるの由にて、配流せられ、弘治二年五月1廿八日、配所に卒す、誠は時廣罪なきに依り、其子甲斐守宗元召返されて、越後國にして三千貫の地を賜ふ、其後北條亡ひ、永井が子孫本領に失て、終に三河國に來り止る、平右衞門重元は、宗元が十一代の孫なり云云、〇按ずるに、夏目が記の如くなれば、直勝もと永井にはあらず仰を蒙り改めて稱號せし所なり、世に傳ふる所は本姓大江にて、永井が子孫、後に長田と改め又其本姓に復せるなりと、是兩說なり、想ふに緣りなきに永井と名のれとは仰られじ、如何さま故あるべし、又東鑑を考るに、長井左衛門大夫に作る、永井にはあらず、また時廣の仁治三年に配所にて死せしといふ事、誤れるにや、三浦若狹前司泰村が打れしは、寶治元年なり、仁治二年より七年の後の事なり、若くは寶治二年といふを誤れるか、長井が三浦が爲に坐せられし事も、東鑑には見えず、毛利藏人入道西阿、同子息兵衞大夫光廣等が與黨たりと載せたり、新編纂圖にも、長井左衞門時廣と載せ、永井とは見えず、また時廣が男甲斐守といふは泰秀としるせり、掃部助宗元といふは廣元の子にて、時廣が爲には弟なり、時廣が子といふ說は不審なり、
- 弘治二年五月 — 지면 그대로. 弘治(1555~1558)는 시대가 맞지 않음. 뒤 按文은 仁治로 논하며, 長井時広 몰년은 통설 仁治2年
天正十年の春武田亡ひし後、德川殿、安土に參り給ひければ、御供の人々の座を分ちて、右大臣殿自ら配膳して酒たびし時、直勝も其座に請じ入れらる、これより德川殿、都のあたり御歷覽ありしうち、織田殿御父子討たれ玉ひ、德川殿伊賀國に懸て、本國へ歸らせ玉ふとて、伊勢國より御舟に召され、三河國大濱に着かせ玉ひしかば、直勝が父直吉、おのが家に入れ奉て、御餉すゝめ參らす、直勝御供に侍ひて、凡そ路次の警衞怠らず、同き十二年四月九日、長湫の合戰に、直勝年廿二歲、敵の大將池田紀伊入道勝入が首とつて、見參に入る、即ち其賞を行はる、北畠殿大に感し玉ひて、入道が佩きし太刀給ひぬ、德川殿千石を給ひぬ、入道が佩きし太刀は、篠の雪といふ、
山中忠兵衞が記にいふ、後に聞しに、勝入をば安藤彥四郞鎗にて突く、永井傳八斬て伏せ首を取る、傳八が手をば御方の者の切しなり、彥四郞は猶進て、池田庄九郞が首を斬ると云云、庄九郞とあるは、紀伊守が事なり、又彥四郞とあるは、後に安藤帶刀といひしが事なり、又同記に曰く、永井右近に千石の地を給ふ、信雄は五千石給ふべきよし仰せられしに、家康が家人にさ程の賞行ひし事いまだ候はずと仰せられしと云々○、謹て按ずるに、信雄の宣ひし所は、信長秀吉の風にて、古にいふ功を尙ぶといふもの、覇術に出づ、信長秀吉の亡ひ給ひしも、此道に因れる所か、德川殿の仰せられし所、深き御心にやあらん、神孫長く世を知しめし、天下動きなき事むべなるかな、これらを、一言邦を興し一言邦を亡すといふべきにや、
其後東西、御和睦成て、天正十八年の秋、德川殿關東へ移り玉ひし時、武藏國にして所領の地給ふ、五千石文祿元年朝鮮の事起りしかば、德川殿も肥前の名護屋に趣かせ給ふ、太閤德川殿の御陣に成らせ給ひ、直勝を御覽じ、あれは誰とか申すと尋ね給ひしに、永井右近直勝と申す、勝入が首取たるは汝か、双なき勇士、御さんなれと、仰られしを、羨まぬ人もなし、同き四年三月廿日大閣、直勝に從五位させ、豐臣の姓をゆるさる、關が原の合戰の時、御所の御右に陣して大將を承る上は、自らの高名はなし、軍の掟よければとて、其賞を給る、二千石を賜ひ、其外に四千五百石餘を三河國にて賜ふ、是は寄騎の士の給料なり、爰に細川兵部大輔入道玄旨、故の足利殿に近侍して、當時無双の有職の人なりけり、關が原の戰の後は、都のほとりにおはしたるに、德川殿、この人につきて、前代柳營の故事ども尋ね問せ玉ふ事ありしに、直勝御使に擇ばれて、常に彼の許に行き向て其事を傳ふ、當代の禮節、多くは彼の入道の傳へし所に依て定められしとぞ聞えける、
謹て按ずるに、天下の亂初て定りしに及んで、やがて其禮を講じさせ玉ひし神慮の程、とかう申に恐あり、かゝる禮にあらずんは、如何でか、天下も國家も治るべき、然るに百年の今、禮樂興るべき期に及びて、此事を語り傳ふる人もなきは如何ぞや、
大坂前後の軍に、直勝が手勢六千人を引具し、大御所に屬ひ奉る軍終て後、諸手の人々の高名不覺を御糺明ありしに、直勝が手の兵は、直勝が沙汰たるべき由を仰下されて、御糺明にも及はず、當時の面目是に若く人あらず、大御所かくれさせ給ひて後ち、將軍家に仕へ奉る、明れば元和三年常陸國笠間の城を賜ふ、三万二千石を領す、世に傳ふる所は、池田紀伊入道の息輝政の參議、大御所の聟君と成て後、見參のついでに、御內に永井右近大夫と申すが候ふなる、所領いか程をや賜ふらんとありしかば、五千石を賜ふと仰られしに、父にて候ふ入道が首の價は、賤く候者かなと申されし程に、忽に笠間の城に七萬石の地添て賜ふといふ、誤れるにや、按するに、直勝に祿多く給べとありしは、信雄卿なり、入道を討し事を譽め給ひしは太閤なり、直勝次第に大名と成し事、皆本文の如し、五千石を賜ひしは、關東へ入らせ玉ひし時の事なり、其後に所領加へられしは、關が原大坂の賞なりしなり、笠間を賜ひしは、大御所かくれさせ給ひし後、大相國家の御代の初なり、輝政卿は大坂の兵起るべき一年前、慶長十八年の正月に卒せられき、其後三年を經て、直勝に笠間を賜ひしなり、又笠間を賜ひし時、三万二千石をこそ領したれ、七万石にはあらず、總て世に誤り傳ふる事、此等の類、いくらといふ數を知らず、同き五年、福島左衞門大夫正則、罪あつて、國を除かれし時、直勝御使として行向ひ、事故なく、安藝備後等を收取る、此年常陸の柿岡土浦等の地加へらる、二万石を加へられて五万二千石を領す同き八年、出羽の最上が滅ひし時、本多上野介正純と共に、御使承り、行向てかの領せし地収取る、かゝる所に本多また罪蒙る事あつて、直勝、鳥居左京亮忠政鳥居時に最上が地を領せし初なり、仰を承り、正純こゝより由利の地に流さる、此年直勝、下總國古河の城に移る、二万石を加へられて、七万二千石を領す、年六十三歲にて、寛永二年十二月廿九日に卒す、嫡男信濃守尙政、家を繼ぐ、生年十四歲にして、父と共に小山關が原等の御陣に隨ひ、十六歲より大相國家に仕へ奉る、慶長九年、常陸國貝原塚の地を賜ひ、千石同き十年、叙爵し、大坂前後の軍に隨ひ、五月七日御使を承て、先陣に行向ひ、よき首一つ取で歸る、明れば元和二年、武藏國菖蒲、近江國志賀等の地を加られ、御書院の番頭となさる、四千石を加へ玉ふ、同き五年、上總の國にして地加へらる、一万石を加へ給ふ、同き九年、遠江國にして地また加らる、五千石加へられて、都合二万四千石を領すといふ、これよりさき、大相國家宿老の職に在て、御書院番の頭を兼ぬ、これを西城の御老中といひしなり、但し宿老職を承りし年月、諸役人帳等に詳ならず、父卒して後、舍弟等と共に所領を分ち讓らる、父が分つ所六万七千二百十三石、自ら領せし所を合て凡八万九千百十三石餘を領せしなり、大相國家薨しさせ給ひし後、寛永十年二月山城の國淀の城に移る、十万石是れ畿內樞要の地にして、帝城擁護の鎭たる故とぞ聞えける、此時宿老の職は免されしなり正保元年一說に二年とあれど石表の辭に從ふ十一月廿三日、從下の四位に昇せられ、萬治元年二月廿八日致仕し、同き八月、入道して信齋と號し、子息等悉く所領を分ち讓らる、嫡男右近大夫尙征七万三千石餘、二男大和守尙保七千石、此人病者たる故にや、三男伊賀守尙庸二万石、四男佐渡守尙善は兄大和守が養子たり、一說に尙善を尙重に作り五男といふ、五男外記尙春、六男甲斐守尙冬、二人共に新墾田三千石つゝ嫡子右近大夫尙征父に繼ぎ、寛文九年二月廿五日丹後國宮津の城に移り、七万五千石ともいひ、七万三千六百石とも、延寶元年十一月十一日六十一歲にて卒す、嫡男越中守尙房廿九歲にして父に先立ち、寛文五年七月十九日に卒しければ、二男實は三男か土佐守尙長を世嗣とす、尙長父に繼ぎ、延寶三年十二月十五日信濃守となり、同七年十一月朔日御奏者番の事を承る、
伊賀守大江尙庸は、信濃守尙政が三男、幼きより左大臣家に仕へ、父致仕の後、所領を分ち讓られ、二万石寛文元年六月八日、御奏者の事を奉り、同き五年十二月、少老の職に補せられ、同き十年二月十四日、京都所司代と成て、所領加へられ、三万石を領す延寶四年の春、職免されて、明る五年三月廿七日卒す、四十七歲、其子伊賀守尙富つぐ、日向守大江直清は、右近大夫直勝が二男、大坂前後の戰に從つて、五月七日、よき首一つ切て獻る、父卒して父が所領を分つ、如何程といふ事聞かず、寛永九年、叙爵し、御書院の番頭に至る、此年月日、諸役人系圖に漏れぬ、舍兄信濃守尙政、山城國淀の城賜ひし時、直清も所領加へられて、同國長岡の邑を賜ふ、二万石を領す兄弟共に京都の警衞に備へらる、慶安二年七月四日攝津國高槻の城を賜ふ、三万六千石寛文十一年正月九日卒す、八十一歲、子息市正直時家をつぎ、延寳八年七月十九日四十歲にて卒す、其子近江守直只家を繼ぐ、實は右近大夫尙征の二男、直時が世嗣とす、