播磨守藤原忠成は、近江國の住人靑山三郞定俊が後胤、喜大夫忠門が息男なり、忠門初めて參河國に來り、額田郡百々村に住して、德川殿の御家人には成てけり、天正の十三年忠成いまだ藤七郞と申せしより、竹千代殿の御傅となされ、台德院殿七歲の御時、同き十五年寄騎の士二十五人を屬せらる、久能衆といふ是なり、若君御年十一歲、初て關白殿へ御見參の時、御供して上洛し、叙爵して常陸介になさる、明れば十八年關東に移り玉ひし時、武藏國にして所領の地を給ひ五千石、一說に相州座間といふ、慶長五年十一月十八日播磨守と成、常陸介殿を避けまゐらせしなり同き六年二月上總下總兩國の地にて所領を加へられ、一万五千石を領す、今年江戶の町奉行職を承り、關東惣奉行職を兼司る、十一年正月の末、忠成內藤修理亮清成二人、共に兩御所の御勘當を蒙て、十八年二月廿日、六十三歲にて卒す、二人が罪蒙りし事、內藤が傳に詳なり、嫡男伯耆守忠俊、十四歲の時より、竹千代殿に仕へ參らせ、忠俊童名藤藏、台德院殿に召仕はれて、藤五郞と改む、天正十八年、小田原を攻められしに、高名して、御感に預る、御感狀を賜ひしと云、慶長十五年十一月十七日、叙爵す、此事不審なり、慶長十年四月廿六日、台德院殿、將軍宣旨拜賀の記、供奉の諸大夫の列に、伯耆守忠俊と注す、されば十年の頃は、叙爵せし事分明なり、又慶長の末、御書院の番頭となされ、大坂の合戰の時、水野隼人正忠清が手と、互に先を爭ひ、手の人々も多く討死し、我が郞等の討死も、十八騎とぞ聞えし、されば兩御所の御感に預て、其賞これ輕からず、加恩の程
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靑山
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인물 徳川秀忠 16青山忠俊 7青山宗俊 7青山忠成 5徳川家康 5徳川家光 4堀田正盛 3青山幸成 3青山忠門 2内藤清成 2青山忠雄 2青山定俊 1豊臣秀吉 1徳川頼宣 1水野忠清 1酒井忠世 1土井利勝 1堀田正吉 1徳川家綱 1顕子女王 1青山幸利 1青山幸通 1青山幸重 1青山幸高 1
지명 関東 2摂津国大坂 2信濃小諸城 2近江国 1三河国 1三河国百々村 1武蔵国 1相模国座間 1上総国 1下総国 1江戸 1相模国小田原 1武蔵岩槻城 1下野国日光山 1遠江国小林 1遠江国今泉 1摂津大坂城 1遠江浜松城 1下総国白井 1下総国高崎 1摂津国岡山 1江戸城西丸 1遠江掛川城 1摂津尼崎城 1
大藏少輔藤原幸成は、播磨守忠成が三男、大相國家に仕へまゐらせ、慶長七年、下總國白井の地を給ふ、五万石同き十九年御不審1を蒙る事あつてけるが、程なく御免し有て元の如く召仕はれ、同き十年三月廿一日、叙爵、初めは雅樂助、後に大藏少輔、十七年十二月廿一日、下總國高崎の地を加へ給ふ、千石なり大坂の軍起りし時も、また御勘當を蒙りしが、忍ひて御供に侍ひて、岡山の戰に、自ら首一つを切り、郞等共に首四つ取らせて、御前に參りければ、將軍家御心よげに御覽じ、幸成高名したるやと仰せ下されて、忽ち御免を蒙り、次第に歷昇つて、大相國家宿老の職に居て、御書院番の頭を兼ぬ、台德院殿西城へ御隱居ありし時の事なり此時御書院番五組の頭、皆老中にて兼ぬ、大相國家かくれさせ玉ひし後、寛永十年、遠江國懸川の城を賜ひ、一万石加へられて三万五千石、一說に此城を給て二万石を領す、○按するに、老中の職は、此時に免れしにや、同き十二年攝津國尼が崎の城に移り、一万五千石を加へられて五万石と成、一說に一万石を加へらる、同き二十年二月十六日に卒す、大膳亮幸利家をつき、四万八千石舍弟等に所領を分つ、二男丹後守幸通新墾田三千石、三男信濃守幸重二千石四男藤藏幸高千石
- 同き十九年御不審 — 지면 그대로. 慶長7年 뒤 「同き十九年」, 이어 「同き十年」「十七年」이 와서 순서가 맞지 않음. 「九年」의 잘못일 가능성. 미확인