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靑山

第五 · 段落 9 · 780522 17コマ Lから

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播磨守藤原忠成は、近江國の住人靑山三郞定俊が後胤、喜大夫忠門が息男なり、忠門初めて參河國に來り、額田郡百々村に住して、德川殿の御家人には成てけり、天正の十三年忠成いまだ藤七郞と申せしより、竹千代殿の御傅となされ、台德院殿七歲の御時、同き十五年寄騎の士二十五人を屬せらる、久能衆といふ是なり、若君御年十一歲、初て關白殿へ御見參の時、御供して上洛し、叙爵して常陸介になさる、明れば十八年關東に移り玉ひし時、武藏國にして所領の地を給ひ五千石、一說に相州座間といふ、慶長五年十一月十八日播磨守と成、常陸介殿を避けまゐらせしなり同き六年二月上總下總兩國の地にて所領を加へられ、一万五千石を領す、今年江戶の町奉行職を承り、關東惣奉行職を兼司る、十一年正月の末、忠成內藤修理亮清成二人、共に兩御所の御勘當を蒙て、十八年二月廿日、六十三歲にて卒す、二人が罪蒙りし事、內藤が傳に詳なり、嫡男伯耆守忠俊、十四歲の時より、竹千代殿に仕へ參らせ、忠俊童名藤藏、台德院殿に召仕はれて、藤五郞と改む、天正十八年、小田原を攻められしに、高名して、御感に預る、御感狀を賜ひしと云、慶長十五年十一月十七日、叙爵す、此事不審なり、慶長十年四月廿六日、台德院殿、將軍宣旨拜賀の記、供奉の諸大夫の列に、伯耆守忠俊と注す、されば十年の頃は、叙爵せし事分明なり、又慶長の末、御書院の番頭となされ、大坂の合戰の時、水野隼人正忠清が手と、互に先を爭ひ、手の人々も多く討死し、我が郞等の討死も、十八騎とぞ聞えし、されば兩御所の御感に預て、其賞これ輕からず、加恩の程
忠俊譜第の中に、人々多きに、保傅の重職に任ぜられしを、深く感じ思ひしかば、若君の愛度おひたゝせ給ふ樣にと思ひ謀りて、或時は、色を和かにして、をしへ導き奉る事もあり、或時は、顏を犯して諫め爭ひ奉る事も、度々に及びしかば、若君幼くわたらせ玉ひし御時に、恐れ憚らせ玉ひし程に、おのづから御行ひも正しく、おはしませしに因て、將軍家も深く悅ひ思召されしといふ、
元和五年、岩槻の城を賜り、五万石、〇一說に元和六年と云同き八年四月、將軍家日光山に詣でさせ給ひし時、大神君七年の御忌祭也、かれが城に入せ給ひ、御氣色殊に宜しく、物多く賜りぬ、如何なる事にや、寛永二年忽に罪蒙て、遠江國小林といふ所に配流せられ、同き九年同國今泉といふ所に移され、二十年四月廿五日、終に配所にて、空しくなる、六十六歲とぞ聞えける、子息因幡守宗俊も、元和七年に叙爵す父と一所に流されしが、父が死せし後、頓て召返され、程なく御書院番の頭となされて、祿を賜ふ、三千石
宗俊始て幕府に參りし時、昔親しき人々來り集り、悅ひあへりし所を、堀田加賀守、打過きしが、立寄て誰にてわたり候ぞと問ふ、有あふ人々皆手を束ね、靑山因幡にて候と答へしかば、伯州の子息なといひしに、宗俊また人々に、かく問はせ給ふは、誰人にましますと問ふ、是こそ加賀守殿にてましませといふ、宗俊聞もあへず、さては勘左衞門御息に候かと云ひしかば、人々皆色を失ふ、當時加賀守に向ひ、誰かは、かくは云ふべき、さる人の子なりけりと、聞人みな感ぜられしと、古き人の物語せしを承る、
此時左大臣家宗俊を御前に召され、汝が父、我が幼きより、家を輔け、其忠を盡し、其誠を抽きんでずと云ふ事なし、然りといへども、我いまだ年若くして、事の情を辨へる事明かならず、當時は左も思はざりき、今こそ思合はさるれ、罪なくして配所にて死せし事、返〱も不便の至りなり、責ては彼の亡魂の恨みを慰めんがためにとて、信州小諸の城を以て、汝に賜ふ所なり、汝また父が心を以て心として竹千代に仕ふべしと仰せもあへず御淚に咽ばせ玉ひければ宗俊も感涙に堪かね出だす詞もなく御前を罷立つ伺候せし人々もみな袂をしぼりしといふなり。
寛文二年九月十五日、大坂の城守るべきよし仰下され、所領餘多加賜ふ、御城代と成て五万石を領す、同き九年十二月、關東に召されて、從下の四位になされ、色々の賜物あり、御臺所にも召されて、御盃を下され、且かづけ物多く賜りて歸さる、是又希代の寵恩とぞ聞えける、かくて齢既に傾きぬ、重職に堪へずと頻に訴へ申す程に、御許を蒙りて、延寶六年八月十八日、遠江國濱松の城を賜ひ、明れば七年二月十五日、七十四歲にて卒す、嫡子和泉守忠親、父が家を繼く、後に忠雄、
大藏少輔藤原幸成は、播磨守忠成が三男、大相國家に仕へまゐらせ、慶長七年、下總國白井の地を給ふ、五万石同き十九年御不審1を蒙る事あつてけるが、程なく御免し有て元の如く召仕はれ、同き十年三月廿一日、叙爵、初めは雅樂助、後に大藏少輔、十七年十二月廿一日、下總國高崎の地を加へ給ふ、千石なり大坂の軍起りし時も、また御勘當を蒙りしが、忍ひて御供に侍ひて、岡山の戰に、自ら首一つを切り、郞等共に首四つ取らせて、御前に參りければ、將軍家御心よげに御覽じ、幸成高名したるやと仰せ下されて、忽ち御免を蒙り、次第に歷昇つて、大相國家宿老の職に居て、御書院番の頭を兼ぬ、台德院殿西城へ御隱居ありし時の事なり此時御書院番五組の頭、皆老中にて兼ぬ、大相國家かくれさせ玉ひし後、寛永十年、遠江國懸川の城を賜ひ、一万石加へられて三万五千石、一說に此城を給て二万石を領す、○按するに、老中の職は、此時に免れしにや、同き十二年攝津國尼が崎の城に移り、一万五千石を加へられて五万石と成、一說に一万石を加へらる、同き二十年二月十六日に卒す、大膳亮幸利家をつき、四万八千石舍弟等に所領を分つ、二男丹後守幸通新墾田三千石、三男信濃守幸重二千石四男藤藏幸高千石
  1. — 底本のまま。慶長7年の後に「同き十九年」、続いて「同き十年」「十七年」が来て順序が合わない。「九年」の誤りの可能性。未確認