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阿部

第五 · 段落 13 · 780522 12コマ Lから

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備中守安倍正次は、伊豫守正勝が嫡子、德川譜代の御家人なり、伊豫守正勝、童名をは善九郞とぞ申ける、天文十六年正勝生年八歲にて、德川殿の御供して、駿河の國府に趣くとて、織田彈正忠信秀が爲に奪れさせ玉ひしかば、正勝同しく尾張の熱田に留めらる、此時德川殿は六歲なり同き十八年二月、再ひ今川殿へ趣かせ玉ふにも、御供に候ひて、主從常に一つ所に長成して、弘治二年の春に至り、德川殿御軍始ありしより、天正十八年相摸國小田原を攻玉ひしに及ふまで、大小の戰に逢ふ事、幾等といふ數を知らず、終に一度の不覺なく、德川殿の御内にして、さる者ありと云ふ事は、天下に名をぞ知られける、甲陽軍鑑等の中、當時の勇士の内に撰出されたり、關東に移り玉ひし後、伊豆の國市原の地を賜ひ、其後に叙爵して、伊豫守に任し、中頃は善右衞門と申せしなり、年積て六十歲、慶長五年四月七日に卒しけり、備中守正次、父に繼き、御書院番の頭となる、關が原の合戰に隨て、御陣の右にあり同き十五年十二月廿四日、下野國鹿沼の地加へ給ふ、五千石十六年十二月十六日、大番の頭と成る、家忠日記追加に出づ、〇按ずるに諸役人系圖には十二年の事とす、大坂前後の戰に、將軍家に隨て双なき高名をぞ顯しける、されば軍終て、後御家人等の高名不覺糺し玉ひし時、岡山の戰に高名したる人々は、皆正次を以て、證人とす、頓て其勳賞として、武藏國岩槻の城に餘多の地を附て賜ひけり、三万石を領すと云、元和六年相摸國小田原の城に移り、五万石同き九年七月、宿老の職になされ、諸役人帳に、今年左大臣家の將軍宣下の時、正次老中なりと註す、寛永三年、大坂の城守るべきよしの仰を奉る、世に大阪御城代と云、一說に寛永五年七月の事也と不審、正保四年十一月二日正次病急なりと聞召し、驚かせ給ひ、子息對馬守重次、御暇を給て、大坂に趣く、正次年七十九歲にて、同き月十四日にぞ卒しける、
對馬守重次、十一月二日御暇賜て、夜を日につぎて馳のぼる程に、同八日、大坂に着て、父の病を見るに既にかうよと見えしかば、今夜重次、此所の奉行城番の人々に向ひ、父のいたはり晨夕を待つ可らず、こゝに身まかり候はんば、御座所を穢し參らするの恐れ少なからず、速に私の別業に移し、終焉の事を謀んと存ずるは如何にと問ひしかば、かねてより面々も、此事を存候ひき、御計ひ尤然るべしと、皆一同に答ふ、重次父が枕に寄添て、泣く〱此由を申ければ、正次全く汝が諫むる所を禦くにあらず、たゞし聞く所の如きは、正次が所存に聊か違ふ所あれば、重て人々と謀りて、義の當らん所に從はんと思ふなり、正次初め此所に罷り上りし時、將軍家御前近く召され、そも〱大坂の城は、五畿の內にありて、近くは王城を鎭護し、遠くは南海西海山陽山陰の要路に當りて、數十州の鎭たり、汝は當家累代の舊臣にして、慶長元和の戰功、他に異なるを以て、わが代官として、此城の事を司らしむる所なりと仰せ下されしかば、正次不肖の身を以て、かゝる重職に在らん事、如何で其任に堪ふべき、さりながら、世既に泰平に屬し、當時何の憚りか候べき、若しくは又如何なる竊盜偸盜など起て、城垣を窺ひ候はんに、正次が身命のあらん限り、城をば守て、人手には渡すまじく候まゝ、たゞこれを以て、奉公の節と仕るべきにて候と、答へ奉りて、罷りのぼり候ひき、されば、正次が一息も息の續きてあらん程は、此城を誰にか渡し候べき、又正次こゝにて死したらんには、君のましまさん所を穢し申の憚りあるに似たれども、凡そ城を高くし池を深くするといふ事は、事危きに臨みて、戰士死を以つて守るべきが爲なれば、しゝむらを積みて壘を增し、血をしたみて水を深くする事古より其例少なからず、若し死を以て忌むべくんば、城きづく事なからんには、若く可らず、これらの事を以て思ふに、人々の議せらるゝ所、正次が素懷に同じからざるに似たり、然れども、正次若かりし時だに、我が智の人に及ばざる事を自ら知りにき、况んや、いま老耄の期既に至り、老病只今身に逼りて、身心更に明らかならず、正次が所存、ひとり義に當らんとも覺えず、すべからく人々の議せらるゝ所、正次が思ふ所を注進し、はや馬を以て申參らせ、御裁斷を仰かるべうもや候といひしかば、重次も人々も、宣ふ所ことわり至極せり、さらば飛脚を以て、此由を申さるべしと議定す、同十日戌の時ばかりに、飛脚到來し、將軍家、事のよしを聞召し、御感殊に斜ならず、正次が所存、御旨に違ふ事なし、尤も神妙の至りに思召し、只其儘に候べしと仰下され、同じき十二日飛脚馳せかへり、正次仰を傳へ聞て感淚に堪へず、わづか一日を經て卒す、如何に思ふ所や有けん、遺言して、淀川の邊にて火葬し、骨をも灰をも、同しく水中に沈めけり、〇按ずるに、此事平岩主計頭親吉、酒井雅樂頭忠世の傳に合せ見るべきにや、
嫡男修理亮正澄は早世し、傳は下に見えたり、二男對馬守重次、家を繼く、重次初め三浦監物藤原の重正が爲に養れ、兄正澄が卒せしより、實父正次が世嗣となる、幼きより左大臣家に仕へ奉り、大猷院殿の御事寛永七年八月、御扈從組の番頭になされ、同き十五年宿老の職に補せられ、老中の後も、御扈從組の番頭を兼ねたり、〇按ずるに此頃の老中も少老も、番頭を歷ずといふ人なし、深き御旨ありしと云ふ、岩槻の城を賜ひ、五万八千石正保四年所領の地加られ、一万石慶安元年七月十日、父が遺領を合せ賜ふ、父が遺領三万石、合て九万八千石、
或人曰く三浦監物といひしは、三河にて佐原何某といひしを、德川どの三浦と名のらせ、其後次第に身を起して、上總大瀧三万八千石を領したり、子なかりしかば、備中守の子重次を聟養子とす、其後備中守嫡男死して、重次世嗣になされし時に、監物が所領の内六千石を分ち、娘に讓りたり、重次は自らの所領に、妻の父より讓られし六千石を合せ領して、實父の遺領をも合たれは、九万八千石には成たり、重次二男初は三浦を名乘たるなり、
同き四年四月廿日、左大臣家薨し玉ひし夜、殉死せり、年五十歲、一說に五十四歲なりと云、
重次殉死の事、皆人不審しあへり、此事のよし、後にぞ世にも漏れけるなる、將軍家のかくれさせ玉ひし時、對馬守重次、堀田加賀守正盛に向ひ、いざさらば同く冥途の御供に候べしと云ひければ、正盛大に驚きて、對州何事にか御供し玉ふべき、若君いまだ御幼稚なり、人々は一人も多く世にありて、御成長のほど、天下の政事を助け奉られんこそ、御供し奉るには、大にまさるべけれと制す、諸老また制して、加州の宣ふやうに存ず、重次ひとり君の御恩を受け給ひしのみにあらず、これに侍ふ人々、誰かは御恩の者ならざる、對州も加州も一所に候はんには皆々同し道にこそ向ふべけれ、さらば誰あつてか、一人生殘て、若君の御行方をば見奉るべき、此事ゆめ〱然るべからずといふ、此時重次申けるは、重次が御供仕るべき事のよし、誰かは知召るべき、止め玉ふもことわりなり、去ながら、重次が今迄かく世に永らへ候はんとは、昔は思ひもよらざりき、一とせ駿河大納言殿の御事候ひしに、重次御使を承り、仰下さるゝ旨ありし時、重次畏て、珍しからぬ申事にて候へども、年ころ命をば君に奉り置きし上は、御心易く思召さるべしと申きつて、高崎へまかり向ひし事の候、一たび故將軍家に參らせて候命を、此後誰が爲に惜み候べき、如何に人々こそ知召されずとも重次が心の思はん所も恥しう候、ましてや若君の御事は、人々かくてましませば、重次が思ひ置事も候はずと、人々に暇乞し、正盛と手に手を取り昔今の物語しつゝ、城門を出て、互に輿に乘る時に、やがて〱と云ひて、宿所に歸り、腹切て死せしとなり、同しき八月嫡男千勝、二男吉兵衞、父が遺領を分ち賜ふ、兄に本領のまゝ、九万八千石、弟に新田の地一万六千石、又重次が遺言に依て、その甥市正正能にも、重次が遺領を分賜へり、新墾田六千石、千勝成人の後、備中守定高と申なり、年二十五歲にして、万治二年正月廿三日に卒す、息男佐十郞幼けなかりしかば、成人の程、伊豫守重長、家の事を知行す、則ち重次が二男吉兵衞が事なり、伊豫守我所領を合せて、十一万四千石を領す幾程なくて、作十郞1成人に及びたれば、伊豫守重長頻に望請ふに依て、寛文十一年十二月十九日、御聽を蒙て、備中守定高が家を、其子息に讓る、佐十郞、父が本領を受けて、九万八千石此年寛文十一年十二月廿八日叙爵して、對馬守に任し、正盛といふ、
  1. — 底本のまま。前後の「佐十郞」の底本の誤植とみられる
伊豫守重長、後に正春對馬守重次が二男、初め父重次、三浦監物重政に養はる、舍兄修理亮正澄卒して後、實父正次が世嗣となつて、おのが二男重長して、三浦の家を繼せけり、承應二年十二月、重長叙爵して、三浦因幡守と申す、万治二年の正月、重長が兄備中守定高卒して、彼の男いまた幼なかりしかば、重長また本姓に歸りて、兄が家を繼て、改て阿部伊豫守とぞ申ける、案ずるに重長が兄の家を繼くに至て、三浦監物が家は絕たり、定高が男對馬守正盛、成人に及ひて後、岩槻の城を讓りて、我身は本領なれば、上總國大瀧を領しぬ、一万六千石
修理亮阿部正澄は、備中守正次が嫡男、父と共に大坂に戰つて、高名を顯し、上總の國大瀧の地を賜ふ、一万石程なく卒して、その子市正正能幼なかりしかば、叔父對馬守重次が許に、ひとゝなり、重次卒しける時、我が所領の地をも分ちあたへし程に、新墾田六千石といふ正能父の遺領と共に合て是を領す、一万六千石なり承應元年六月、從叔豐後守忠秋の世嗣となる播磨守是なり、
豐後守阿部忠秋は、伊豫守正勝が二男左馬助正吉が子なり、正吉若かりし時より、德川殿に仕へ參らせ、度々の高名を顯はす、小田原の城を圍れし日、城中より鉄炮を放つ事夥し、正吉進て鐵炮に中りて手負し事、家忠日記に見にたり、慶長四年十二月八日、步行衆の頭となり、元和元年五月七日、大坂の合戰に、御方忽ち亂れ奔らんとす、正吉壹人踏止て、御方を制し戰て、終に敵を打破る、
世に傳ふる大坂の諸記に、岡山の戰に、將軍家の御手忽に亂れ走る、正吉獨り踏止て戰ひ、味方遂に勝つ事を得たり、將軍家まのあたり、御覽じたりし高名なれば、此時の人々の高名をも、不覺をも、御糺しあるに及びて、正吉を證人になされしといふ、此說の如くなれば、岡山の合戰に、阿部兄弟を以て證人となさる、希代の事といひつへし、〇按ずるに大坂兩御陣供奉記のしるす所は左馬助は大御所御步行頭四人の中なり、將軍家御步行頭四人の中にはあらず、されば左馬助正吉が、岡山にて戰ひしといふ事、如何なる事にや覺束なし、
元和三年、兄正次が闕に補せられて、大番の頭となる、是より先、慶長十五年十二月廿五日、息男小平次、若君に附られたり、大猷院殿七歲の御時後に豐後守忠秋と申せしは是なり忠秋幼きより、夙夜の奉公に懈らず、元和九年十二月、御扈從組の番頭に至り、叙爵して豐後守に任し、寛永元年正月十八日、父正吉が遺領に、我所帶を合せ賜ふ、父が領五千石、おのか、領千石、すべて六千石同き二年二月三日、加恩を蒙る、此時に一万石を領すといふ同き三年正月十一日、又所領を加られ、一万五千石に至ると云寛永九年二月、宿老の職になされ、一說に寛永十二年二月の事といふ不審同き十一年閏七月廿九日、從四位下に叙せられ、同十二年十月廿六日所領を加賜ひ、一說に此時に二万五千石に至ると、一說に此時、には一万五千石に至る、二說いまた定かならず、同き十四年正月十二日、下野國壬生の城を賜ふ、二万五千石同き十六年正月十一日、武藏國忍の城に移る、六万石一說此後正保四年加恩ありて六万石に至る、慶安三年の九月五日、大納言殿、西城に遷らせ玉ふに依て、忠秋を以て、かの御家老に附らる、同き四年左大臣家薨しさせ玉ひ、右大臣家、世を知召し其年八月十六日、侍從に任す、明曆三年六月、忠秋が請に因て、彼の從弟故修理亮正澄が男市正正能を嗣と定められ、播磨守になさる、
寛文三年二月八日所領の地加へ給ひ、二万石を加へ玉ひてすべて八万石を領す同十一年五月廿五日致仕し、延寶三年五月三日に卒しぬ、播磨守正能、實は修理亮正澄が男、豐後守忠秋世嗣となり、寛文十一年五月廿五日、忠秋が讓りを請て、おのが本領共に合領す、九万石延寶元年十二月廿三日、執政の職に補せられ、同き廿八日。從四位下に任す、身いたはる所多して職に堪へずと辭し申す事止まざれば、同き四年十月六日、職免され、五年七月四日致仕す、嫡子美作守正武、讓りを受け、九万石、此內一万石をば父が隱居領とす、其餘の男子等、所帶を分ち讓る、二男七三郞正重五千石、後に志摩守に任す、三男長吉正房三千石、後に越中守に任す、四男鶴之助二千石、後に主稅と申す、