大和守藤原廣之は、三左衞門廣宣が三男也、廣宣三河國の住人德川譜代の御家人にて、大須賀五郞左衞門康高が手に附らる、三百石を給ひき、父は平四郞と云初め三四郞と申せし時、生年十六歲、坂部三十郞廣勝十五歲、二人共に打連て軍し、能き敵討て、共に高名せしよりこのかた、武名の譽れ、當世に顯はれ、三四三十と呼れしは、彼等二人が事なり、關東に移らせ玉ひし時、二人一所に上總の國橫田の地を給ふ、大須賀が男出羽守忠政、遠江國橫須賀の城に移りし時、久世坂部同じく忠政に從て移らず、二人終に御不審を蒙て、武藏國片山といふ所に引籠て居たり、橫田を領する事は元の如し大坂の軍起りし時、二人同しく將軍家の御陳頭に馳せ來る、彼等はさる古兵なれば、両御所の仰を蒙て、諸手の人々の陣々に御使して、其功これ少からず、軍終て後、二人同しく下總國海上の地を給ふ、二千七百石つゝ加へ給りて各三千石を領す、其後二人共に所領の地加へられ、二千石つゝ給て、各五千石なり、二人又同く馬武者十騎步兵十八人を附らる、總御鐵砲頭といふ、廣宣が嫡男三四郞某、父が闕に補せられて、御先手の事を承る、則ち總御鐵砲頭なり、二男は坂部が子なければ、養て子とす、坂部佐十郞と名のつて、大坂の合戰に討死す、廣之は三男なれば、別に所帶を賜て、御番衆となされ、始めは三之亟寛永十二年十一月十七日、步行の頭を承り、同き十五年十一月に次第を歷ずして、直に御扈從組番頭に至り、慶安元年九月八日御側衆となされ、所領加へ給はり、五千石なり、右大臣家世を知召されし初、承應元年正月十一日、御馬の事を掌る、明れば二年九月番頭を免され、寛文二年二月廿二日、少老職に補せられ、同三年八月十五日宿老の職に移り、此年九月四位の待從1になされ、同九年六月廿五日、下總國關宿の城を賜ひ、此時一万石を加へられて、五万石を領しぬ、是よりさき度々所領賜りし年月未た詳ならず延寶七年六月廿五日に卒す、男出雲守重之家を繼き、此年延寶七年九月十二日御奏者の事を掌る、
- 待從 — 지면 그대로. 「侍從」의 저본 오식으로 보임