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가문 목록 › 第十一 › f154

水野

第十一 · 단락 2 · 780525 53코마 L부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 6 3 3 2 2 2 2 1 1 1

지명 1 1 1 1 1 1

彈正少弼源分長は、右衞門大夫殿德川殿御外祖忠政の御事第八の男藤次郞忠分の嫡子なり忠分織田殿に仕へて、天文六年十二月1八日攝津の國有岡の戰に討死す、四十二歲分長初は三左衛門尉と申て奧州の守護蒲生の家に在り、參議氏鄕卒して後、德川殿の御家人となつて、慶長四年の十二月八日、大番の頭となされ、明れば五年の秋關が原の戰には、海道の御供にて候ひけり、六年四月尾張國小川の城を賜ふ、一万石同き九年叙爵して備後守に任し、其後また彈正少弼には任じたり、其子備後守元綱、慶長十七年九月廿九日叙爵し、是も大番の頭となされ、寛永九年十一月十五日御奏者の事を承り、正保二年六月廿八日、上野の國安中の城を賜ひ、二万石寛文四年十月廿六日致仕入道して道要と號し、同き五年五月十六日七十四歲にして卒す、其男信濃守元知、父が讓を受け寬文七年の五月廿八日狂氣の由にて所領沒收せられ、水野出羽守忠職に召預けられ畢んぬ、
  1. — 지면 그대로. 水野忠分의 摂津 有岡 전사는 天正6年(1578) 12月 8日(有岡城 공격)이 통설로, 「天正」의 저본 오기로 보인다
或人語りしは、元知が妻は水野監物忠善が娘なり、極てもの妬み深き人なりけり、元知久しく心地煩しく打籠りて居たるを、如何にもして心慰めんとて、或時たゞ一日歌童など召集て謠ひ舞ふ事ありしを、妻は深く恨みて、又の日守刀を拔て元知を切る、切られて其刀奪ひ取りしかど、旣に面に疵つきぬ、舅の忠善これを聞て我娘をば迎へ返へす、此後元知なほ引き籠りてありしを、世のさかなさは、元知が病ふは夜となく晝となく、酒呑みあかし、色を好む心深きに因る所なり、夫故に忠善が娘をも奪ひ返したりなどいひ罵り、さらぬ事共取つけ引つけ、云ひ沙汰せし儘に、終に罪蒙りぬと云ふ、實なるにや