e129.p05校訂済106R:11–12106L:1–1別又光秀丹波龜山より愛宕に續ける山に廓を構へ、此の山を周山と名く。自ら武王に比し、信長を殷の紂王に例ふる心後に現れたり、と人言ひけり。又志賀唐崎の松、何時の比にか枯たりしを、光秀植ゑつぎて、今の松なり。光秀咏める歌、
e129.p06校訂済106L:2–6別われならで誰かはうゑんひとつ松こゝろしてふけ志賀の浦かぜ一說、靑蓮院宮尊朝法親王の辛崎の松の記にて見れば、大津の城主新庄駿河守直賴舍弟松庵玉東雜齋壽直1此雜齋天正十九年卯の秋植ゑられし由、其時の和歌に、おのづから千代も經ぬべし辛崎のまつにひかるゝみそぎなりせば然れば今の松は此新庄の植ゑられしか。注記庵玉雜齋壽 — 本文は「松庵玉雜齋壽」。「東」「直」は振り仮名の位置(右側)に本文と同じ大きさの活字で添えられた注記で、それぞれ「玉」「壽」の脇にある。注記の意味は未詳。