然間入番之族者此方彼方之塀をのり狹間をくゞりて落坎ぬ。然間城をかためて、廣忠を御本居をとげさせ給ひ而、只今城へ移らせ給ふ成。二三之丸に有侍廣忠得心有者は、二三の丸をかため給ひ而、入番之族を一人ももらさず打取給得と云而、鯨聲を上鐵砲をはなし懸申せば、しるもしらざるも落行。旣に夜も明ければ、心有御普代衆は、何方から此城を忍び取らんともおぼえず。誰人ぞ廣忠を引入申とおぼえたり。其儀ならば急可㆑參とて、心有衆は大手へ急參而、是者誰がし何がしと名のりて馳せ集まる。城寄は喚はる。各々か早く來り給ふ物哉。次郞三郞樣社今夜曉方に是得御本居をとげさせ給ひ候ぞや。各々御普代の面々達は、𠆻二三の丸得入せ給ひ而、かためさせ給得、定而上野寄內膳殿駈け可㆑被㆑付、御油斷有間敷と申ければ、各々我も〱と駈け入而、二三之丸をかためけれども、內前殿も寄給ず。內前殿仰けるは、廣忠を引立申者別之者にはよも荒じ。大久保にて可㆑有、腹切すべき者なれども、伊賀之八幡之御前にて七枚起請を三度書せ申故、ゆだんをして扶置き申事悔敷口惜無念成。流水跡へ不㆑歸後悔不㆓先立㆒、大久保は內前殿に憎まれても苦にもたず、廣忠を御本居させ申せば、內前之憎給ふも起請の御罰も不㆑入、只今社嬉しきと云。廣忠十三の御年淸康に御おくれさせ給ひ而、頓而其年眼前之大祖父內前殿に岡崎を立出されさせ給ひ而、御年十三に而伊勢の國得御浪人被成、御年拾五之春駿河國へ御下被成、今河殿を御賴被成而、其年之秋今河殿寄も加勢をくはへて、三河の國もろの鄕にうつらせ給ひ而、御年拾七歲之春、御本居被成岡崎得入せられ給ふ。廣忠之御悅を、物に遙々譬ふれば、法華經之七之卷藥王品に云、寒者の火を得たるがごとく、倮成者の衣を得たるがごとく、商人のぬしを得たるがごとく、子の母を得たるがごとく、渡りに舟を得たるがごとく、病に藥しを得たるがごとく、貧敷に寶を得たるがごとく、民之王を得たるがごとく、こきやくの海を得たるがごとく、爝㷄の暗を除くがごとくと說給ふ如くに、何御心之內の御喜是に劣申間敷、扨又御本居をとげさせ申儀、御滿足と仰有而、其御忠節と被成候而、新八郞、藤助、甚六郞、佐近右衞門、又太郞に地方拾五貫づつ被下けり。甚四郞彌三郞を初此一類之者どもにも、それ〲に被下けり。新八郞にも並に被下る。然ども御知行は其分成、是に余かつて中野鄕と申て、くでん百貫之處を代官を仰被付而、後日には是を知行に被下けり。