然間、元龜四年癸酉の暮に、勝賴は遠江へ御出馬有而、久野、懸河へあてゝ、國中へ押出して、ほう火する。其寄天りう河の、上の瀨をのり越而、濱松へはたらき、まごめ之河をへだてゝ、あしがるをして、其寄引取てかんざうの瀨を越、やしろ山を越て、山なしへ出而、すくも田が原に陣を取給ふ。然所に、池田喜平次郞と云者、博奕打のはうびきし成。然共、うき世になきすりきりなれば、ばくちは、やるせもなく打ちたくはあれ共、し合に立るものなければ、取みなしとて、あひてもなければ、やるせもなく打たきまゝに、然者勝賴のすくも田が原に陣取而、御入之由を承候へば、忍び入而馬を盜み取而、ばくちを可打とて、行ける所に、被見付て、四方へおひまはされ、頓而いけどられて、高手小手にいましめられて、勝賴之御前へひつすゆる。勝賴は御覽じて、敵のもやうは何と有と被仰けれども、弱みを一つ不申して强み斗を申ければ、引立而行、番をよくしておきてにがすな、頓而御せいばい可有とて、いらせ給へば、いよ〱つよくいましめけり。