然る處に、同天正十二年甲申之年、關白殿、御本上に、腹をきらせ給はんと被成ける間、其時御本上家康を奉賴と、被仰候に付而、尤之儀成。是非共に、みつぎ可申、さてくわんばく殿は、むごき事仰候物かな、柴田が三七殿を引申たれば、しばたと、しづがたけにて、合戰して、しばたをたやして、又三七殿を、沼の內海に、おはします處に、現在の主成を、昔之、長田に、たがわずして、三七殿をぬまのうつみにて打奉り、本上をばくわんばく殿のもりたてんと被申て、又世もしづまるかとおぼへば、本上に腹をきらせ申と手、是非にみつぎ申さんと仰ければ、早くわんばく殿、十萬餘騎引つれ而、鵜沼を越而、犬山へ押出て、こまき山を、とらんとし給ふ處に、家康はやくかけ付させ給ひ而、こまき山へあがらせ給へば、くわんばくも手をうしなひ給ひて、おぐちがくでんに、諸勢は陣取りて、一丈斗に高土手をつきて、其內に陣取成。こまき山には、柵をさへ付けさせ給はずして、かけはなちに、陣取せ給ふ。土手のきわまで、かけ付〱して、十萬餘之人數に、つらを出させ給はず。然る處に、岡崎へ押寄而、城を取物ならば、こまき山も、たもつ事成間敷とて、三好之孫七郞殿を大將として、池田勝入、森之庄藏、はせ河藤五郞、堀の久太郞、其外三萬餘にて、天正十二年甲申卯月八日に、おぐち、がくでんを立而岩崎へ出て、一時之內に岩崎城を責めとりて、かち時をつくりて有ける處に、家康は三河へ、敵がまわると聞召而、其儀ならば、人數をつかわさんと被仰而、水野惣兵衞殿、榊原式部大輔、大すか五郞左衞門、本田豐後守親子、其外を指つかわされける處に、程なく三好孫七郞殿に押寄而、合戰をしてきりくづし、岩崎を指而おひ打に打つ。然處にほりの久太郞、はせ河藤五郞岩崎之城を責取而、きおひていたる處へ、おひかけければ、ちり〲に亂而、おひける處を、又其寄おひかへされて、おばた迄うたれける。