然る處に、天正十四年丙戌之月、尾張內府家康へは御さたもなくして、關白殿へ無事をつくらせ給ふ處に、くわんぱく殿よりして、尾張內府早ぶぢに被成候間、家康も御ぶぢに被成候へと、仰被越ければ尤の儀なり、大ふの賴被申候へばこそ手ぎれは申たれ、大ふさへ一身被申候はゞ、我等においては仔細なしと仰つかはされければ、其儀におひては忝存知候。然者べつして申合可申ためなれば、我等の妹を可進とて其御定を被成て頓て御輿を入給ひて、御姉婿殿に被成ければ、此故は上洛をせずしてはかなわざる事なれば、然者御上洛可被成と御意の有ける處に、坂井左衞門督被申けるは、御上洛の儀共さりとはゆわれざる思召立にて御座候。菟角に思召とゞまらせ給へ、御手ぎれに罷成候うとても、是非に及ざる儀共なりとしきつて被申上ければ、各々諸大名衆も右衞門督1被申上候ごとく、御手ぎれに罷成申とも莵角に御上洛の儀は分別に及不申候。何と御座候へても、今度の御上洛は是非に思召とどまらせられ可被成と、各々もしきつて申上給へば、左衞門督をはじめ各々は何とて左樣には申ぞ。我一人腹を切て萬民をたすけべし、我上洛せずんば手ぎれ可有。然共百萬騎にて寄くる共、一合戰にて打はたすべけれ共、陣のならいはさもなき者なり。我一人のかくごをもつて民百姓諸侍共を山野にはめてころすならば、其亡靈のおもわくもおそろしき。我一人腹を切ならば諸人の命をたすけおくべし、其方などもかならず何かの儀不申共、わび事をして諸人の命をたすけおけと被仰ければ、左衞門督も左樣にも思召に付ては御尤なり、御上洛可被成之由申被上けるを、さすがにおとなの御返事には似相たりと申ける。太閤者御上洛之由を聞召て、其儀ならば忝存知候。左樣にも思召ならば、若御用心之儀も思召可有候へば、母にてまします人を岡崎迄質物に可遣と被仰て、御老母之政所を岡崎迄御越被成ければ、其迄に及不申忝と被仰て、井伊兵部少輔と大久保七郞右衞門にあづけおかせられ給へば、人じちの御越有て、諸人も大いきをつきてよろこぶ。御上洛有ける時兵部と七郞右衞門を召て被仰けるは、若我が腹を切ならば政所をがいして腹を切可有者なり。我腹を切たり共、女共をばたすけおきて歸すべし。家康こそ女房をがいして腹を切たると有ならば、異國迄の聞えも不㆑被㆑可㆑然、末世の云つたへにも可成、然時んばまん所をばがいし奉れ。かならず女共に手さし有間敷と仰おかれて、御上洛被成けるに、何事もなく御歸國被成ければ、各々上下共に目出度と申よろこぶ事かぎりなし。然間政所も御よろこび有て御上洛被成けり。然共六ヶ敷や思召けるか、其後に御毒をまいらせんとて御ふるまいの時被遣けるに、大和大納言とならばせ給ひて上座に御座被成候つるに、御運のつよきによつて御膳の出る時御しきだいを被成て、大和大納言殿を上座へ上させ給ひて下座へ居替らせ給ふゆゑに、其御膳が大和大納言殿へ据りて、家康のきこしめされん御毒を大和大納言の參てはてさせ給ふ。さて其後年々御上洛被成けるに相違もなし。
- 誤植右衞門督 — 底本「右衞門督」。前後の「左衞門督」(酒井)の誤植か。