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目次 › 三河物語第三下 › m3.085

家康の慈悲を示す数々の例編集見出し

85 · 753字 ·編集段落

さて又相國樣の御じひは申不及候へどもあら〱如斯。まづ〱御敵をなしてさび矢をいかけ奉り、御命をねらいひたる者共を、こと〲く御助け被成候御事さいげんなし。又は尾張內府の太閤にせめつけられ被成んと有時、家康を賴奉と仰けるにより、御加勢に御出馬有て合戰を打勝給ふ所に、內ふは太閤にかたらはれ、家康へはさたなしにぶぢをつくりて、あまつさへ家康を打奉らんと內々たくみ給へど、何とも打可奉樣のあらざれば程も延行ける處に、太閤より內ふはぶぢをつくらせ給ふが、家康は何と可被成、同は御ぶぢをも被成候へと仰被越ければ、內ふにたのまれ申せばこそぶぢにもいたさね、さらばぶぢに申とて御ぶぢになる。然時後內ふは太閤に國をとられ給ひて、越前のかたはらにあられぬ成にて御座候つるが、今度石田治部が手がわりの時、家康へ御敵に成て治部と一身に成けるが、合戰に御勝ち候ても御赦し被成て御じひを被成ける。今度は大阪へ不入る故に、役なしに五萬石被下候儀は御じひにはあらずや。石田治部が伏見にて御敵をなさんとしければ、上方衆寄合て腹を切せんと申を、各を賺いてさお山へおくりて越給ふ。御じひにはあらずや。其御おんをわすれて又御敵を申て打ころされ申。佐竹、景勝、島津、安藝の毛利、彼等が御敵を申たるに、御せいばいはなくして反て國郡を被下けるは御じひにはあらずや。秀賴を四度迄ちがいめを御赦されたるは御じひにあらずや。信長の伊賀の國の者をば何方に有をも引出して、こと〲くせいばい被成けるに、三河遠江へ參たる者をば隱し置給ひて、一人も御成敗なき、是は御じひにはあらずや。然處に信長の御腹切せ給ひし時家康樣者伊賀地にかゝらせ給ひてのかせられ申時、日比の御おん御忝と申て、國中の者共がおくり申奉りて通し申、是も日比の御じひ故なり。是も御因果の御目出度御事なり。