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이에야스의 도토우미 출진과 아키야마의 철수편집 표제

22 · 911자 ·편집 단락

然處に早吉田を渡し而行、長間作手段嶺もかうさんし而出仕をする。扨又甲斐の武田之信玄と仰合而、家康は遠江を河切に取給得、我は駿河を取んと仰合而、兩國得出給ふ。蒯沼次郞右衞門、鱸石見、今藤登、是三人して案內者をして、永祿十一年壬辰1十一月日、遠江得出させ給ふ。然間氏眞は信玄に駿河を取れ給ひ而、懸河得落來り給ふ。上樣は伊野谷得出させ給得ば、二俣早く御手を取、小笠原新九郞を召而、其方一類之事なれば、蚖堬得行而小笠原與八郞を引付給得と御諚なれば、畏御請を申、其寄蚖壔得行ける處に、與八郞は人質をつれ而、秋山所得行を道に而逢而、御身は何方寄何くゑ通らせ給ふぞと云ば、新九郞申は、我等は御身之方得心懸而參りたり。御身は大勢引つれ給ひ而、何方得渡らせ給ふぞ。我等は秋山方得出仕いたし而、人じちを渡さんと思ひ而、是迄罷出申成と申せば、其儀ならば先御歸あれ、內談を申さんとて、すなはち押歸して申、當國は家康之御手に入成、御身も秋山方得之出仕はやめられ候得而、早々家康得御出仕あれ、爲㆑其に某が參候と申ければ、何と成とも御貴殿之御計らひ惡事はあらじとて、秋山方得之出仕を頓而やめて、新九郞をつれ而、家康得出仕有。上樣は懸河に當給ひ而、不入斗に御陣をはらせ給ふ。秋山は信濃寄も遠江の國あたご得出て、見付之鄕に陣取而、國侍供を引付んとす。然處に家康寄仰つかはさる。大炊河を切而、駿河の內をば信玄之領分、大炊河を切而、遠江之內をば某領分と相定而有處に、秋山被出候事ゆはれ無、早々引歸らせ給得と御使之立ければ畏而候と而、山なし得引入すくもだが原得押上而、原河之谷をとをり、倉見西鄕をとをり而、さよの山得出て駿河得行、秋山が異儀に及ならば打害被㆑成と被仰けれども、秋山異儀に不及して引除けるは、秋山巧者と社は申しける。然間永祿十一年壬辰に、氏眞は、駿河をば信玄に押しはらはれ給ひ而、懸河得朝稻之備中守處得落來り給ふ。備中守が引請而、爰をせんどと摝供成難。然處に小原之備後守、日比、小笠原與八郞が奏者之事なれば、與八郞を賴而蚖堬へ、妻子を引つれ而落行ければ、入も不㆑立して妻子共に悉一人も不㆑殘打害、扨もむごく哀成次第哉。小笠原が行末いかがあらんと諸人感じける。
  1. 오식 — 할주 간지 「壬辰」. 永禄 11년은 戊辰이므로 간지가 잘못된 것으로 보인다.