然間信玄は上方に御手を取衆之おゝくありければ、三河へ出て、それより東美濃へ出、それよりきつてのぼらんとて、味方が原へ押上て井の谷へ入、長しのへ出んとて、ほうだへ引おろさんとしける處に、元龜三年みづのへさる十二月二十二日、家康濱松寄三里に及而打出させ給ひ而、御合戰を可被成と仰ければ、各々年寄共の申上けるは、今日之御合戰如何に御座可有候哉、敵之人數を見奉るに三萬餘と見申候。其故信玄は老むしやと申、度々の合戰になれたる人成。御味方はわづか八千の內外御座可有哉と申上ければ、其儀は何共あれ、多勢にて我屋敷之背戶をふみきりて通らんに、內に有ながら出て尤めざる者哉あらん。負ればとて出て尤むべし。そのごとく我國をふみきりて通るに、多勢成というてなどか出てとがめざらん哉。兎角合戰をせずしてはおくまじき。陣は多ぜいぶぜいにはよるべからず、天道次第と仰ければ、各々是非に不及とて押寄けり。敵をほうだへ半分過も引おろさせて、きつてかゝらせ給ふならば、やす〱ときり勝たせ給はん物を、はやりすぎてはやくかゝらせ給ひしゆゑに、信玄度々之陣にあひ付給へば、魚鱗にそなへを立て引うけさせ給ふ。家康は鶴翼に立させ給へば、少せいという手薄く見えたり。信玄はまづ鄕人ばらを出させ給ひて、つぶてをうたせ給ふ。然るとは申せ共、家康衆は面もふらず錣をかたぶけてきつてかゝる程に、早一二之手をきりくづしければ、又入かへてかゝるを、きりくづして、信玄の旗本迄きり付けるに、信玄之旗本よりまつくろに時をあげてきつてかゝるほどに、纔八千の人數なれば、三萬餘の大敵に骨身をくだきてせり合たれば、信玄之旗本にきりかへされてはいぐんをする。家康御動轉なく御小姓衆をうたせじと思召而のりまわし給ひて、まん丸に成てのかせ給ふ。馬にて御供申衆は、すがぬま藤藏、三宅彌次兵衞其外はおり立ければ、馬にはなれてかち立成。中にも大久保新十郞をかなしませられ給ひて、小栗忠藏に馬を一つとれと仰ければ、相心得申とて頓而取てのりける。忠藏も手を負ひけるが、其馬を新十郞にかすまじきかと被仰ければ、忠藏御意寄はやくおうけを申而とんでおり、新十郞をのせて我はもゝを鑓にてつかれけるが、いたまずして御馬に付奉りて御城迄御供を申、上樣よりも御さきへにげ入て、上樣は御討死を被成たると僞を申處へ、無何事いらせ給へば、彼者共はこゝかしこへ又にげかくれけり。上方らう人に中河土源兄弟はおぼえ之者と申つるが、濱松へは得のかずして懸河へにげてゆく。水野下野殿は今切れを越てにげ給ふ。山田平一郞は岡崎迄にげ行て、次郞三郞樣之御前にて、大殿樣は御打死を被成候と申上候處へ、上樣は無何事御城へいらせられ被成候。諸大名衆も一人も無何事引のけ申成。但信長よりの御かせい平手と、御手前之衆には靑木又四郞殿、中根平左衞門計、物主は討死仕候。其外若き衆家老共は鳥居四郞左衞門、本田肥後守、加藤ひねの丞、同九郞、ゑのきづ小太夫、大久保新藏、河井やつと兵へ、杉之原なつと兵へ、榊原攝津守、成瀨藤藏、石河半三郞、夏目次郞左衞門、河井又五郞、松山久內、加藤源四郞、松平彌右衞門殿、何れも此外に此とほり之衆數多候へ共しるすに不及。