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이누이 패전과 오쿠다이라 구하치로의 혼인편집 표제

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さて又天正二年甲戌四月、いぬいへ、腰兵粮にて、御はたらき有而、ずいうんに、御旗が立ければ、諸勢は、れうけ、ほりの內、和田之谷に陣取。折ふし大雨ふりて大水出ければ、一兩日は何れも兵粮なくして迷惑したり。然共水も程なくひきおちければ、同六日之日御陣も引のけさせ給ふ所に、御旗本はみくら迄引とらせ給ふ。然る處に天野宮內右衞門けた之鄕より出而、あとぜいにしきつてしたい付、たる山の城、かうめうの城より、これ等が先へまはつて、田のおふくぼ村に出、鄕人を相くわへて、此方の嶺谷、彼方のをづる山さき、木かや之中より、しかりげ、さるかわうつぼを付、しゝ矢をはめて、五人十人二十人三十人づつ、中へ出あとへ出先へ出而、おもはぬ外之處にててつぽうをはなし、おごゑをあげけれ共、日のめも見えぬみ山之中なれば、ふせぐ事もならず、殊更上はくもにそびへたる大山、下はがゝとしたるがん石のほそ道なれば、あとよりくづれたるともなく、中よりくづれたる共なくして、田のおふくぼ村にてかへせば、深山に入て見えず。のけば又出而付。然間、田のおふくぼ村にて、同年の四月六日にはいぐんする。各々打死有り。ほり小太郞、鵜殿藤五郞、大久保勘七郞、おわらの金內、是等がしよ手に打死してより、其ほか數多打死をしたり。御旗本の心がけたる衆、あとへのこりて打死をしたり。上樣は、みくらにて此由聞召、あとにててつぱうのおとが聞こえけるが、いかゞと思召所に、あとぜいがはいぐんと聞召て、おどろかせ給ひて、引歸させ給へば、敵はちり〲に、味山へ入而見へざれば、是非に及ばせ給はずして、御馬は天方迄入る。其時大久保七郞右衞門同心の杉浦久藏、手をおひてゐたるをみて、乘りよせて飛んでおり、久藏手をおひたるか、是にのれとて引立てければ久藏がいふ、うつけたる馬之おり處かな、我等とをりの者は、何程打死したるとてもくるしからず。大將をする者が、左樣に馬ばなれる物か、八幡大菩薩のる間敷と云へば、しきだいは所によるぞ、早のれと云。久藏云けるは、我御身をおろして、ころして、我此馬にのりていきても、ゑがとけぬ、とてものる間敷とてのらざれば、ぢこくうつりてあしゝとて、七郞右衞門はのらばのれ、いやならば馬を捨てよとて打すてゝのきければ、小だま甚內が立歸而、七郞右衞門はのきたるなり。はやのれとてとつて引立てのせて、我は又、はしり付申す。然間七郞右衞門には、兵藤彌助、小たま甚內、犬若と云小者と三人付。然る處に、ほそみちのかけのはたをのきける處に、あとよりにぐる者が、さきへとをるとて、七郞右衞門を崖へ突落す。三人の者共が付而飛ける處に、犬若があげはのてふの羽のさし物をもちたるが、すてけるに、敵が是をとるを兵藤彌助が見て、はしりかゝりてかなぐりとる處を、わきなる敵が、彌助をけさがけにきりたふすを、七郞右衞門がとつ而歸して、二人ながらきりふせければ、また犬若がさし物を取而もちてのく。然間奧平道文之ちやく子作州は、勝賴に、べつしんをして、御忠節を申給へば、長しのの城を出し給ひて、九八郞を頓而むこ殿になされんと仰ければ、信康之被仰樣には、存知もよらず、我等が妹むこに、何とて九八郞を仕らん哉と、被仰ければ、さすがに、おしてもならせられ給はずして、信長へ被仰ければ、信長より被仰候は、尤信康之仰候儀承とゞけたり。然共忠節人之事、又は大事之さかいめをあづけおき給ふ間、次郞三郞殿不肖を堪忍被成候ひて、家康にまかせられ候て、尤かと存知候と被仰ければ、親達之被仰候間、何と成とも御存分次第と被仰ける間、さてこそ奧平九八郞方へ御越は入ける。