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오가 야시로의 모반 계획과 야마다 하치조의 밀고편집 표제

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然處に、天正二年甲戌勝頼御出馬有而、高天神之城へ押寄而、責させ給ふ處に、信長後づめと被成而、御出馬有りければ、小笠原與八郞手がわりをして、ゐなりに成ければ、信長手をうしない給ひて、吉田寄引歸らせ給ふ。然處に天正三年乙亥に、家康御普代久敷御中間に、大賀彌四郞と申者に、奧郡廿餘鄕之代官を、御させ給ひて、何かに付而ふそく成事なく、富貴にくらすのみならず、あまりの榮華にほこりて、よしなき謀反をたくみて、御普代之御主をうち奉りて、岡崎の城を取て、我が城にせんとくは立けり。然間小谷甚左衞門、倉地平左衞門、山田八藏を引入而、此事やす〱と岡崎を取可申とよく申合而、勝賴へ申入候は、是非共今度御手を取申、岡崎を奉取、家康御親子に御腹をさせ可申事はれきぜん成。其いわれは、何何時も、家康岡崎へいらせられ給ふ時は、我等御馬之御先に參而、上樣御座被成候に御門ひらき給へ、大賀彌四郞成と申せば、うたがひもなく、御門をひらき申候間、然者つくでまて御馬を被出給ひて、御先手の衆を二かしらも三かしらも、指つかはされ候はゞ、其御先に立而岡崎へ御供して、城へやす〱と引入れ申者ならば、御城の內にて、次郞三郞信康樣をば、打取可奉成。然者こと〲く家康へそむいて、勝賴へかうさん申而、御手に可付成。然時んば、家康へ付可奉者共は、何れも少身者にて有者共、二百三百付申而あればとて、功をばなすべからず。其者共も岡崎に女子をおきたれば、こと〲くおさへ取物ならば、其內も大方參而かうさんを可申、大久保一るい共が、御敵を不申候筋め之者にて候間、可奉付、然共是も少身者どもなれば、是も功をなす事はあらじ。殊更女子共はやはぎ河を越而、尾張を指而おちゆくべし。然者河之はたに、小谷甚左衞門と山田八藏が罷有事なれば、一人もとをさずして、めし取申者ならば、是も御手をとる事も候はんか、然共是は不存候へ共、然共家康へ付可奉者は、百騎之內外にて可有候之間、然者濱松をあけて、舟にて伊勢へのかせられ給ふべき、然らずは吉良へうつらせ給ひて、舟にて尾張へ御越被成候はんとて、御とをり可被成、然者押寄而打奉、家康信康御親子樣之御しるしを、ねんじ原にかけ可申と、あり〱と書付而、大賀彌四郞、倉地平左衞門、山田八藏、小谷甚左衞門判とかきとゞめ而、勝賴へ上ければ、勝賴悅給ひ而、然者尤此事いそげとて、つく出筋へ、御出馬有りける處に、山田八藏つく〲とあんじて、如此の儀ならば、御主を打奉らん事うたがひなし、然とても打奉る儀も成間敷なれば、兎角に此儀におひて一味は成間敷と思ひて、此儀を申上、若御ふしんに思召候はゞ、我等がちやうだいゑ、一兩人も御越被成而、御きかせ可被成候。此儀を內談仕而きかせ申さんと申上ければ、尤と被仰而、一兩人指つかわされて、きかせられ給ひしに、れきぜん之儀成。