さて又、天正五年丁丑に、すはの原の城を責させ給ひ而、頓而責取給ふ。其寄小山之城を押寄而責させ給ふ處に、勝賴は後づめと被成而、長しのにて打死の跡嗣之、十二三寄うへの者、又はしゆつけおちなどを引つれて、御出馬ありてはやおほ井河を、一そなひ二そなひ越ければ、城をまきほぐして、引のき給ふ時、いらうさき迄は、敵にむかわせ給ひし程は、信康何共不被仰してのかせられ給ふが、いらうさきより敵をあとへなす時は、信康之仰には、是迄は敵にむかひ申なればこそ、御先へは參たり。是寄は敵をあとにして引のき申せば、先上樣のかせられ給へ。何方にか親をあとにおき申而、子の身として、先へのく事の御座可有哉と被仰ければ、大殿之御諚には、せがれのゆわれざる事を申者哉。とく〱のき候へと、千度百度、押しつおされつ仰られけれども、つひに信康はのかせられ給はねば、大殿之まけさせられて、引のかせ給へば、信康は御あとをしづ〱と引のかせられ給へば、勝賴も河をば越給はず、河を越たる者も引とり、上樣もすはの原城へいらせ給ひ而、其寄御馬は入。