別之子細にあらず、三郞をば左衞門督がさゝゑによつて、腹をきらする迄、我も大敵をかゝゑて、信長をうしろにあてゝ有故は、信長にそむきて成がたければ、是非に不及と被仰ける處に、平岩七之助罷出て申けるは、聊爾に御腹をきらせ御申給ひては、かならず御後悔可被成。然者某を御もりに付奉り候へば、何事をも某之いたづらに被成候へて、某が頸をとらせ給ひて、信長へ急指被上給ば、其時誰ぞ御賴被成而、家康も獨子にて御座候間、ふびんに可被存と申上候はゞ、其時は信長も、某が頸之參ると聞召給はば、疑團のやはらぐ事も可㆑有に、兎角に某が頸を一時もはやく指つかわされ給へと思ひ入而、重々指つめ〱申上ければ、七之助が云處尤成、忝こそ候へ、能つく案じても見よ、我も國にはゞかる程の獨子をもちて、殊更我あとをつがせんと思ひて有に、か樣に先立申さんこと、日本之はじと云、いか計めいわくこれにすぎず、然るとは云共勝賴と云大敵をかゝへて有なれば、信長をうしろにあてねばかなはざる事なれば、信長にそむきてはならず、其故汝をきりて頸をもたせてやりて、三郞が命さへながらへば、汝が命をもらはんずれ共、左衞門督がさゝへの故は、何としても成間敷に、汝までなくしては上がうへの恥辱成。然者三郞をふびんなれ共、岡崎を出せと仰あつて、岡崎を御出被成而、大濱へ御越有而、其寄ほりゑの城へ御越被成而、又其寄二俣の城へ御越被成而、天方山城と服部半藏を仰被付而、天正六年戊寅御年二十にて十五日に御腹を被成けり。何たる御とがもなけれども、御前樣は信長の御娘にておはしまし給ふ。其故早御姬君も、二人出來させ給へ共、御不合にも有つるが、それとても御子も有中と申、御ふうふの御中なれば、御子の御ためと申、人口と申、方々いか樣に御さゝへ可有にはあらざる御事なれ共、さりとてはむごき御仕合と、申さぬ人はなかりけり。それのみならず、坂井左衞門督は御家のおとなと申、御普代久敷御主の候事を、御前樣に見かへ奉りて、御前と一身して、よくも〱くちを指上而さゝへ奉りたりと、各々上下共に申而にくみけれども、信長へおそれをなして讐はならず、さてもをしき御事かな、これ程の殿は又出がたし。晝夜共に武邊之者を召寄られ給ひ而、武邊の御ぞうたん計成、其外には御馬と御鷹之御事成。よく〱御器用にも御座候へばこそ、御年にもたらせられ給はね共、被仰し御事を後之世迄も、三郞樣之如此被仰しとさたをもする、人々もをしき事とさたしたり。家康も御子ながらも、御きやうと申、さすが御親之御身にもたせられ給ふ御武邊をば、のこさず御身にもたせられて出させ給へば、御をしみ數々に思召候へども、其頃信長にしたがはせられで、かなはぬ御事なれば、是非に不及して、御腹を御させ給ふなり。上下萬民こゑを引而、かなしまざるはなし。信康之御そく女二人おはしまし給ふ成。