扨又武田之梅雪も勝賴之ためには姉婿にて有りけるが、府中寄御前をぬすみ出して下山へ引のけ給ひ而、勝賴にぎやくしんをし給へば、いよ〱何れも勝賴をすてゝかけおちをしたり。家康は駿河よりもいらせ給へば、田中之城を、依田右衞門督がもつ。まりこの城をやしろ左衞門がもつ。とうべの城をば朝比奈がもつ。久のの城をば寄合にもつ。あな山は御味方に成たるとは申せ共、未ゑじり之城をもちていたる間、此城々をおさめて蒲原にてあな山とたいめん有りて、あな山を押立給ひて市河へ御付有而御陣取せ給へば、信長はすわに御陣之取せ給へば、先手は新府に付。家康は道々之城々に御隙をつくし給ふ。それのみならず道之程も岐阜と濱松をくらぶれば、濱松からは三日ほども遠からんに寄而、すこしおそくいらせ給ふ成。勝賴は早こと〲く御內之衆もちり〲に、主をすててかけおちをしたりければ、纔五十騎三十騎之ていにならせ給ひて、新府を天正十年壬午三月三日に、御前を引つれさせ給ひ而、出させ給ひ、郡內の小山田方へ御越有らんとて、小山田八左衞門と云者を先樣指つかわせ給へば、小山田も心がわりをしてよせ奉らざれば、八左衞門も歸りこず。其寄只今迄御供したる者供も、ちり〲に成而、早五騎十騎之體にならせ給ひ而、天目山へ入せ給はんと被成ければ、てんもく山へは御普代久敷甘利甚五郞と大熊新右衞門が婿舅、先に入而手がわりをして、矢てつぱうを出していかけ打かけければ、かなわせ給はで、御前御曹子ともに河原に敷皮をしかせてやすらわせ給ひける處に、あとより程なく敵がおひかけければ、土屋惣藏指むかひける所に、跡邊尾張守は爰をはづしておちゆくを、惣藏是を見て尾張は今にいたつて、何方へおちゆくぞとて、能つ彎いてはなしければ、尾張もうんやつきけん、土屋が矢がはしりわたつて、まつたゞなかをいとおしければ、馬よりしたへおちければ、よせくる者が卽頸を取、とてもの黄泉ならば花々と勝賴之御供をするならば、土屋同前に其名をあげて、名をかうたいにのこすべきを、おなじよみぢと申ながら、普代之主のせんどをはづして、其場をかけおちして、土屋に射ころされ申事を、にくまぬ者はなし。土屋はそれ寄矢束ねといて押みだし、さし取引つめさん〲にいてまわり、おゝくの敵をほろぼしてとつて歸、御前と御そばの女房達に御いとまをまいらせ給ひ而、勝賴と御ざうしの御かいしやく申而、其身も腹十文字にきりて、死出三途の御供申たる土屋惣藏が有樣、上古もいまも有がたしとほめぬ者はなし。