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이시카와 호키노카미의 출분과 고모로 잔류편집 표제

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各々ははつまがそり寄引取給へ共、大久保七郞右衞門者こむろの城にとゞまりける處に、天正十三年乙酉の暮に石河ほうき守逆心をして、女子を引つれて岡崎寄引のけける。上には岡崎へうつらせ給ふ。大久保七郞右衞門にも、さう〱罷上候へとこむろへ日々に重々飛脚立けれ共、七郞右衞門いそぎて上ならば、上方は亂而早七郞右衞門も落行と云ならば、爰元も亂而一揆も起き而あらば卽さなだも偣者ならば、相違なくとらるべし。其ゆゑ越後に信玄御子に御せうどう殿と申而、御目の見えざるの御入候ふ。是親子を甲州へ入奉んやうに申而、是を何とかと心がけたると、さたの有樣に申候へと、何となく申樣に候へば、自然左樣之儀も有らば。甲州迄も亂而可有、左樣にも有ならばいよ〱御負けに可被成候間、爰元を少見合而罷可上と申而有とは申せ共、重々仰被下候へば、其儀ならば誰ぞのこしおきて罷可上と申而、御地行を申上而可出に、誰居よ彼居よと申せ共、御地行ののぞみ處にあらず。石川ほうき守ぎやくしんの故は、親女子のゆくへもしらずして、のこり所にあらずと各々申はらつていたり。七郞右衞門は其儀ならば是非に不及、各々は歸り給へ、我等が是に可有と云ければ、各々申は、たとへば親女子はつれ申共、我等共斗罷歸る事は中々有間敷、何方へもともかくも御貴殿次第と申。七郞右衞門はたれに申而もがつてんなし、然者平助是に有而くれよかしと被申ければ、我等もいづれも同前に候。ほうき守いられ候う膝の下に、母と女房をおきて、とられたるもしらざるに、御地行を申而、くれんなどといはれ而、跡にとゞまる者哉可有か。其故爰元之樣子をも御らんぜ候ごとく、命ながらへて歸り而、御地行申うけ申事かたし。其故ほうき守ぎやくしんの故は、定而おほかたの儀には有間敷ければ、上而も死するとゞまりても死ずる、とてもしする物ならば、御旗先にて討死を可仕候。同命をまいらせながら、爰元にて果て候はゞ、人もしり申間敷候へば、幕の內之討死に候。其故母之儀は、御方にも母、次右衞門、權右衞門にも母にて候へば、我等一人之母にあらず。我等こそあらず共、兩三人之御入候へば、思ひおく事はなけれ共、女房之行へもしらずして、其故命不定成處にて御地行ののぞみ處あらず。御地行は閻魔王の御前へさゝげ候はん哉、何と仰候共とゞまり申事は中々思ひよらず、ふつつといやに候。其時七郞右衞門申は、其方が被申候所げに〱左樣に候。母之儀は子供あまたあればあんずる事なし。女子之儀はほうき守ちかくにおきたるに、何と成たるもしらずして御地行ののぞみ處にあらざると被申候事、其の儀は尤道理きこえ而候。其儀は我等あやまつたり、かんにんせよ。然者何の望もなく、命をすてゝ是に其方とゞまりてくれよかし。其儀にあらざれば、我等のぼり申事ならざる間、偏に賴入と被申ければ、其儀ならば心得申候。地行にたづさわりてならば、中々にかくごに不及候へ共、何かなしに命をすてよと仰候處を、いやとは不被申候間、さう〱一時も早くいそがせ給へと、重々の御意に候に、爰元之儀あんじ給ふなと言て、早早と申て暇乞してのぼせて、我は酉之八月より戌之正月迄とゞまりける。然共ほうき守させる手立もせずして引のきける。