然る處に手出しに堺の町をやき而手を出す。大野主馬、さなだ左馬頭、明石掃部其外の者共が申けるは、京とをやき拂い、大津をやきてせたの橋をやきおとし、其より宇治橋をやきおとして奈良をやくべしと申處へ、早相國樣の御馬が京とへ付、押付而早江戶より夜日についで押つめさせ給へば、大將軍樣もつゞいて伏見へ御付給へば、秀賴の思召事もかなわず。然る處に、ふる田織部は京とをやき立申さんと申て秀賴と內通申處に、あらわれて其くみのもの迄あらわれ、東寺にはりつけにかゝる。古田織部は御せいばい成されける。其ほかにも御せいばい人おほし。かるが故に、慶長八年癸1五月五日に京とを御出馬被成而、同六日にどうめう寺ぐちへ後藤又兵衞をはじめとして各々出ける處に、たつ田ぐちより出給ふ衆、越後のかづさ守樣、政宗、松平下總守、水野日向守、此衆に出合而、松平下總守、水野日向守、指合而兩手の前にて合戰してきり負けて、後藤又兵衞は打れける。其外はいぐんしておひ打にせられ大阪指てにげ入。平野筋へは木村長門が出けるが、井伊掃部と藤道和泉と兩人指合而、兩手にて合戰して木村長門を打取ければ、大阪指而はいぐんしたる處を、おひ打に打ければ、のこりは大阪へにげ入、しぎ野筋へは榊原遠江がおひ打にしたり。
- 오식癸 — 할주가 「癸」 한 자뿐이다. 慶長 8년 간지 「癸卯」의 「卯」가 빠진 것으로 보인다.