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후다이 무리의 진가와 가미가타 무리 비판편집 표제

73 · 1,111자 ·편집 단락

又は御普代衆は相國樣の御代迄山野に伏て夜ひるかせぎ、かまりをして、武邊を家としてやりさきをとぎみがき、矢のねをみがきてつぱうをみがきて、武邊をむねにたやさずして此道をかせぎたる衆の孫子にて候へば、祖父親のぶこつ成すがたを生おちより見つけて候へば、上方衆のやうに、いたいけらしき聲づかいして、こびひなのやうに出立て、けいはくを云事は罷成間敷けれども、しかしながら、恐らくは御用にたち申事においては、御普代衆に上こす事はおそれながら日本には有まじけれども、只今は御用づくは御國も治まりて天下富饒成うへ、いらざると思召て御普代衆には御ことばがけも不被成候哉。殊更案祥御普代、山中御普代、岡崎御普代の衆のすゑ〲をば、一しほ御目にもいれ給はざる御事は、良藥口に苦きが如く、然どもらうやくは口ににがけれどもやまいを治する。御普代はぶこつにて召つかわれ候事もどかはしく思召とも、御わきざしと思召御心おきなくゆる〱と御心をもたせ給ふ御事は、御普代衆にこす事は有まじけれども、左樣には候はでとざまにて召つかわれ候へば、かたみをすくめて各々御普代の若き衆はありく。他國衆は只今は御座敷にては御用にたゝんと云て、肩衣にてめをつかせてありく共、取つめての御用には、御座敷の上にて、かゞみたる御普代衆には中々思ひもよらず成間じき。昔の引べつも有、諸國のらう人が濱松へ出來りて御普代衆にもまけ間敷、是非共に御用に立て御旗の御先にて打死を可仕候と、誠しやかに高言をきらしければ、上樣もさもやあらんと思召、又は御普代衆もげにもと思ひてまけまじとかせぎければ、御普代衆を一度越たる事もなし。其故味方ヶ原にて御合戰に打負させ給ひて、旣に遠江三河もあぶなく思召候時は、日比かうげんきらして有る諸國の諸浪人は、かけおちをして一人も殘らずして、三河遠江の者斗有て、御用に立て御運のひらかせられける。か樣なる引べつも候へども、其儀を御存知なくして上方衆を御祕藏被成、御心をおかせられ給ひて、御身になる御普代重代の衆のすゑ〲をば御ことばがけもなし。御普代衆をあつめおかせられ給ふならば、日本國者打かはるとも、百萬騎にてよせくるとも、御普代衆五千も一萬も可有が、上樣の御先にて錣を傾けてかゝるならば、何かはためん哉。御普代衆をあしく被成候事は、上樣の御しつついを御存知なきなり。淸康樣家康樣などは御普代の者をたいせつに思召て、弓矢八幡普代の者一人には一郡にはかへまじきと御意被成ける間、なみだをながしてかたじけなしと申てかせぎけるが、只今は御普代の者を御存知なきとてなみだをながしける、うらとおもてのなみだなり。是迄は何れも御ちうせつ被成候御普代衆、又は我々共の儀なり。