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松平(形原)

第二 · 段落 1 · 780520 21コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

人物 9 4 3 3 3 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

紀伊守家信は、和泉入道殿第五の御子、佐渡守興嗣六代の孫、初め岩津殿と申、また岡崎の七人衆に數へられ、寶飫郡形原の鄕に移りしより、形原の松平とぞ申ける、家信が曾祖紀伊守家廣、水野右衞門大夫殿の長女を妻とす、贈大納言家廣忠卿の御事北の方を德川殿の御母傳通院殿御事、返へさせ玉ひし時、家廣かの御姉に添ひまゐらすべきこと、岡崎殿の思ひ給はんこと憚り有とて、女子壹人設けし中なれども、刈屋に送り返してけり、詳なる事、酒井雅樂助が傳に見ゆ其子紀伊守家忠、其子紀伊守家嗣1、德川殿に隨ひて、所々の戰に高名す、家信、父家嗣に繼ぎて、天正十年の秋、武田亡ひ、織田殿失せさせ玉ひ甲斐信濃の國々亂る、家信いまだ又七郞と申て生年十四歲、十三歲と云說非なるか、酒井左衞門尉忠次に從ひ、信濃國に向ひ、高嶋の城に勝つ事を得て、同十二年三月尾張國羽黑にして、森武藏守長一と戰ふ、敵さん〱に打されて、迯行く、野呂助左衞門、只一人取て返して戰ふ、家信彼に渡り合ひ、終に首取て德川殿の見參に入る、德川殿野呂は聞えし大剛の兵、家信生年十六歲、彼が首取たりと聞く、不審さよと思召す、家信頓て御前に參り候て、郞黨等か落あうて候へば、打たるにて候、今日の高名、全く家信が高名にあらずと申ければ、御感もつとも斜ならず「關東に移り給ひし後、上總國五井を領す、五千石、關が原の戰ひには、參河國岡崎を守る、慶長十五年の冬、叙爵す、元和五年攝津國高槻の城を給ひ、二萬石、○按するに元和五年まで、五井を領せしにや、また大坂の合戰に功なきにや、いまだ詳なることをしらず、其後從四位下、寬永十二年十月六日、下總國佐倉の地を給ふ、四萬石同十五年正月四日、七十歲にして卒す、嫡子若狹守康信、父に繼く、三萬四千石、舍弟助十郞秀勝、民部少輔氏信、父が所領を分ち領す、六千石配分す寛永十七年九月十日、康信また高槻の城に移る、三萬六千石なりしとぞ、また一說に一萬石加へられ、四萬四千石といふ不審、慶安二年七月四日丹波の國笹山の城に移る、五萬石其後從四位下して、同九年九月廿九日、致仕入道し、別峯と號す、嫡子駿河守典信、始めは大和守父が讓りうけて、程なく寛文十二年十一月廿日卒しぬ、年四十四歲、其嫡子主膳正信利、父に繼く、延寶四年、十九歲にて卒す、世嗣なくして舍弟九十郞信茲を世嗣とす、信茲駿河守典信が三男なり、二男助十郞信孝は、一族丹後守勝信が家を繼しに依て、信茲兄の家をつき、叙爵して、豐前守に任す、
  1. — 底本のまま。寛政重脩諸家譜(輯1 形原松平)では家忠の子は家信で、家嗣という人物はいない。本書の「家忠―家嗣―家信」は世代の重複または家忠の誤記の可能性がある。未確認