f058.p002校訂39R:11–1439L:1–2家の系圖に載する所は、五左衞門正重は、式部大夫家村十代の孫なりと云々、東鑑を按ずるに、寶治元年三浦若狭前司泰村が討たれし時、式部大夫家村は落失せて、死生を知らずと云々、寶治元年より正重が時に至るまで、凡三百五十年に及べり、世次僅に十代といふ事、覺束なし、家の傳ふる所、傳ふべきにはあらねども、中間に漏れたる人あるか、世に傳ふる所、五左衞門正重は、德川殿の外樣武士と云々、一說に三河國刈屋の地下人なりと云々、
f058.p003校訂39L:3–9母は土井大炊介利勝の妹なり、此時利勝いまだ大炊介と申す、正次十三歲の時、德川殿に召れて、慶長十七年二月廿八日、名字改めて、土井甚太郞と申す、初めは龜千代、名字改めしは、大御所の仰に依てなり、其後大相國家の仰に因て、父が名字になつて、三浦と名のり、叙爵して志摩守に任す、寛永五年十月、御扈從組の番頭になされ、左大臣家の御覺、殊に宜しく、同き十年六月少老の職を奉て、番頭をも兼たり、番頭を兼ねし事、寛永十五年十二月に至る、十六年正月十一日、下野の國壬生の城を給ふ、二万五千石十八年十月廿七日四十二歲にて卒す、嫡子志摩守安次家を繼く、二万石二男越中守共次父が領を分ち賜ふ、五千石