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稻葉

第六 · 段落 9 · 780522 69コマ Rから

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地名 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

家の系圖かくの如し、曰く林は、もと清和源氏なりと云々、稻葉の系圖は別に見ゆ、爰には畧しぬ、世に傳ふる所は、美濃の稻葉の庶流を林といふなり、織田殿の家老林佐渡守通勝、林の嫡流なり、總兵衞尉正三は、其庶流なり、正三初め當國の齋藤山城守入道道三に仕へ、高洲の城に住し、後に織田殿に仕ふと云、家の系圖には、異なれども、こゝに註して、暫らく一說に備ふ、
家忠日記追加を考ふるに、此時に正成、村越茂助につきて、此度秀秋が御方たりし事、某が計らひたるよしを申によつて、御書を給て賞せらると云々、但し秀秋の御方せしは初めより故ある事なり、精しく其傳に見ゆ、追加の說不審、
其後正成、金吾家を去り、秀秋又卒して嗣なくして家亡ひ、正成御家人となされ、內匠頭に成る、本多佐渡守を避けしといふ、二万石を賜ひしといふ按ずるに秀秋の家にては、寄騎共に四万石といふ、大坂の合戰に首廿七切て獻る、後に越前の家につけられて、越後國糸魚川の城を領す、寄騎共に四万石といふ、○此事は覺束なく思ふ所あれども、世にいふ所に任せてしるす、正成初め齋藤内藏介利三が娘を妻として、丹後守正勝をまうく、
丹後守正勝若君の乳母の子たるに依て、將軍家の御覺え淺からず、父正成卒せし後、父が所領をも合せ賜ふ、大納言殿、將軍宣下かうむり給ひし後、將軍家宿老の職に加り、大相國家薨じさせ給ひ、將軍家御代知召しゝ初、寛永九年七月朔日、加藤肥後守忠廣、罪ありて、出羽國に流されし時、正勝御使を受け給て、肥後國に向ふ、此年十一月廿三日、相模國小田原の城を給ふ、四万石を加へ給りて、合て八万五千石を領す、同じき十一年正月廿五日、正勝三十八歲にして卒し、其子鶴千代丸幼なくして家を繼く、春日局は慶安二年に至て卒2す、去し寛永二年城北に寺を立られ、庄田多く寄られ百石1天澤寺と號す、卒して此寺に葬る、將軍家いろ〱の作善とり行はせ玉ひ、自らも墓所に詣させ給ひ、年々の忌日も絕えず弔らはせ給ひぬ、鶴千代丸成人して正則と名のり、美濃守に任し、明曆三年九月廿八日、宿老の職になされ、同き十二月廿七日從四位下、寛文元年十二月晦日、侍從に進み、同き三年二月八日、所領の地加へ賜ふ、一万石延寶八年正月十二日また所領の加らる、一万五千石嫡子丹後守義雅二男出羽守正喬、男女の子猶多し、
  1. — 底本では割注の中にさらに小さい字二行(右が百、左が石)で入っている。重なった割注は表記せず、本文の順に記す。対照本(3439341 コマ69)で判読
  2. — 底本のまま。春日局の没年は通説では寛永20.9.14(1643)