藩翰譜本文データベース

家一覧 › 第十一 › f153

松平(竹谷)

第十一 · 段落 1 · 780525 52コマ Lから

人物地名官職家日付索引一覧
この家によく出る人物・地名

人物 11 6 6 5 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 4 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

玄蕃頭源家清は、故備後守清善の孫、備後守清宗の子なり、初め和泉入道殿の二男和泉守守家より清善に至るまで凡そ四代、三河國岡崎の城にあり、清善初て同國竹谷に移りて竹谷與二郞と名乘りしより、世の人竹谷の松平とは申けり、清善初め今川に隨ひ、一人の娘を質として吉田の城に納る、德川殿と今川と不快の後、清善かの質を棄てゝ德川殿の御方に參る小原肥前守、吉田の城主大に怒て、清善が娘を執つて吉田の城の邊に串刺にして捨てゝける、清善安からぬ事に思ひて、おのが異父同母の弟鵜殿藤太郞、今川の方人にて同國上野の鄕の城にあり、押寄せて攻む城の兵七十餘人が首きり捨て、城を攻むる事既に三日、味方にも手負ひ死するもの少からず、德川殿かくと聞召し、清善助けさせ給ふ程に、城終に落ちて鵜殿兄弟藤太郞藤介討死す、清善これらを奉公の始めとして、後は身を忘れ家を顧みず、功を積み勞を重ね、齢既に傾き家を子息清宗に讓りて致仕す、元龜三年德川殿宗徒の人々を召集められ、遠江國宇津の山の要害に籠められんが爲に、然るべき大將を選はる、されども誰よからんぬと指し申す人一人もなし、清善此由を聞て望み申ければ、悅ばせ給ふ事淺からず、友長村千貫の地を給て彼の要害を守らせらる、天正十五年とし八十三歲にして卒しけり、備後守清宗も初め與二郞と申し、父と共に德川殿の御方として度々の武勇を顯し、永祿十二年石川日向守宗成1と同く懸川の城を守り、又鹽井原の城を守て武田が勢と戰ふ、其賞として遠江國にして所領賜り、上張菅谷龜甲等の地三方が原堀越長篠等の軍に從ひ、甲斐の武田が滅ひし時、宗徒の人々と彼國に入て、北條左衞門大夫氏勝と黑駒に戰ひ、清宗自ら鎗執て眞先に進み、氏勝が勢を打破る事、一日の內に凡三度、御方終に勝軍す、年老て子息家清に讓て興國寺の城にあり、玄蕃頭家清これも初は與二郞と申す、初め甲斐國に入せ給ひし時、北條が勢と勝沼に戰ひ首餘多切て獻る、父が家を繼てのち、長湫の軍にはおのが興國寺の城に留て守る、關東に移らせ給ひし後、武藏國松山八幡山とも云の城を賜ふ、一万石關が原の戰には尾張國清洲の城を守る、明れば慶長六年二月三河國吉田の城を賜て移る、三万石同き十年十一月十日父備後守清宗入道全榮卒す六十八歲、同き十五年十二月廿一日に家清卒す四十五歲、其嫡子民部少輔忠清が母は、德川御異父同母の御妹、父卒して家を繼き、幾程なくて同き十七年四月廿日廿八歲にて卒し男子なければ家絕えぬ舍弟庄二郞清昌に西郡五千石の地を給て、其子孫猶家を繼きぬ
  1. — 底本のまま。永禄12年懸川城を守った石川日向守の実名は通説では石川家成