大納言源忠長卿は、大相國家第二の御男、左大臣家の御同母弟にてまします、御童名は國千代丸、御歲十三にならせ給ひし時、元和四年三月十一日甲斐の國を參らせられ、同き六年八月廿二日、參議從四位下兼右近衛權中將になされ給ひ、同き九年七月廿七日權中納言に轉し從三位に昇り給ひ、寛永二年正月十一日駿河遠江を參らせられ、甲斐の國を合て三箇國を領し給ひ、駿河の國府を御座所と定めらる、同き三年八月十九日に權大納言從二位にならせ給ひぬ、同き八年の夏の頃駿河の國に趣せ給ふ、これは御入部あるべき由を仰せ下さるゝといへども、內々は此殿の御心こは〱しく物あらき御振舞のみあつて、大相國家の御心に背かせ給ふ所多くわたらせ給ひしゆゑ、御折檻の爲に、かくは遠ざけさせ給ひしとぞ聞いける、此事鳥居土佐守成次が傳を合せ見るべし此年の秋の比より、大相國家なにとなく御心地例ならず、いかに成り行くべき世の中ぞと、世の人安き心もなかりしに、此殿は如何に思召すとも見えず、十一月五日の日當國淺間の山に入て、猿ども狩らせて御覽あるべき由をふれらる、抑も此淺間の山は、人皇五十代桓武天皇の御宇、延曆廿四年神かゝりましまして、愛鷹飼犬二柱の神、淺間大明神と現し給ひ、五十一代の朝廷平城天皇、大同元年に、朝家此社を御建立ありしより星霜既に八百年、永く殺生禁斷の結界たり、かゝる狩くら有らんこと、神冥の恐れ少なかるべからずと、止め參らする人々も多かりしに、我すでに此國のあるじたり、縱令いかなる神なりとも、我が地に宮居しめ給はんには、いかで我が命に從ひ給はざらんやと仰せあつて、同十一日數萬の勢子、山々谷々に追ひ入て、猿ども狩り出さる、猿凡そ一千二百四十餘頭を取つて歸らせ給ふ時、御輿の內より刺矛をぬかせ給ひて、駕輿丁が臂のかゝりを、ぐすと刺貫き給ひしかば、此男大に驚き御輿すてゝ逃げ走るを、御供の人して忽に誅せらる、それよりのち何となく濫がはしくならせ給ひ、同十二月廿一日御鷹狩のために御出ありしに、空俄にかき曇り寒風夥しく吹き出しければ、とある庵室に立ち入らせ給ひて暫く御休息のほとに、侍小濱七之助この庵に御座ありとも知らで馬に乘て馳せ參るを、きと御覽じつけられて、御面の色少し損じさせ給ふ、小濱こゝに入らせ給ふと聞て、馬乘り放ち頓て御前に伺候す、殿小濱めして此爐の中に木きりくべて、火燒て參らせよと仰ければ、住持の僧薪參らす、此程降りつゞきたる雪氣に、柴皆潤ひふすぼりて火もえず、小濱爐のうちに差し俯きて火吹かんとする所を、御佩刀を以て只一打に首うち落し給ひ、これ取捨てよと仰せければ、清水八郞右衞門といふ侍、御歩行目付也參りて死骸とり收む、汝この火たけと仰せらる、終に近く參らぬ男おそろ〱這ひ寄て、又薪くべて焚く手ふるひ息切れて、柴かき亂し火吹くに息出でず猶ふすぼりて火もえず、其身は中々に活きたる心地もなし、御前祇候の人々、今や斬られ參らす今や切られ參らすかと、肝魂も身に添はず、されども此度は何の御咎めもなくて立ち出で給ひぬ、かくさせる科なき者を、自ら斬らせ給ふ事、此年既に六七人に及で、明れば正月の半より大相國家の御違例、殊に重らせ給ひしかど、關東に參らせ給ふ事も叶はず、同廿四日大相國家終にかくれさせ給ひぬ、此後世の中何となく靜ならず、天下亂れんこと近きにありぬと、ひろめきあへり、六月朔日加藤肥後守忠廣、父子配流せらる、其罪さだかならず、謀反の人に組みせしとも聞ゆ、さらば如何なる人か斯る企は有るらんといへども、其人も亦さだかならず、かくて墨染に咲きし櫻も梢に殘らず春過き夏たけて、秋は紅葉の色ながら皆人花の袂になり行く、いつしか物每に改りぬる世となりて、八月の初め勅使下向の事あり、動きなく世知召されて人の心定る、十月廿三日永井信濃守尙政、御使を承て駿河國に趣き、靑山大藏少輔幸成は甲斐國に趣く、其餘大名御家人等二十餘人、駿河遠江甲斐の國々に向ふ、如何なる事ぞといふ事を知らず、人皆不審しあへり、十一月十六日大納言殿の近習の侍廿餘人、諸大名に召し預けらる、此頃にぞ世には此殿甲斐に徙され給ひぬといふ事をば知れる、同月廿一日永井靑山、御使より歸り參る、十二月には彼家のおとな鳥居朝倉等の輩配流せらる、明れば十年正月の末大納言殿、又上野國高崎の城に徙され、安藤對馬守重長に預けられ給ひぬ、いかに思召し定められけん、此年十二月六日の夜、自ら御首をかき落して失せ給ひしこそ無慙なれ、御歲は二十八にぞならせ給ひける、安藤對馬守重長の傳合せ見るへし
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駿河殿
この家によく出る人物・地名
人物 徳川忠長 21徳川秀忠 13徳川家光 12武田晴信 5徳川忠長家臣小浜七之助 4徳川家康 4土井利勝 4長遠寺(信玄聟) 4加藤忠広 3崇源院 3鳥居成次 2永井尚政 2青山幸成 2安藤重長 2武田二位(信玄外孫) 2桓武天皇 1平城天皇 1徳川忠長家臣清水八郎右衛門 1朝倉宣正 1春日局 1英勝院 1稲富祐直 1伊達政宗 1藤堂高虎 1
地名 甲斐国 6駿河国 4遠江国 2駿河浅間神社 2関東 2駿河国府中 1上野高崎城 1江戸城西丸 1摂津国大坂 1伊勢国長島 1佐渡国 1甲斐光沢寺 1
初め左大臣家竹千代殿と申し奉り、大納言殿國千代殿と申せし時、御父將軍家、國千代殿を愛でさせ給ふ事深くして、世嗣の君に立てんと思召し定めけるに、竹千代殿の御乳母春日局が、於勝の御方に就きて訴へしかば駿河の御所、大に驚かせ給ひ、急き關東に下らせ給ひて、何となく竹千代殿をたうとませ給ひ、國千代殿をば事每に押し下らせ給ひ、又內々は將軍家に嫡子退け少子立てん事は天下亂るべき基なりとて、さま〱に御敎訓あり、竹千代殿幼き御心にも、我れ故なく退けられんには、父の世の爲に長き誹を殘させ給はんこと悲しき事なりと思召され、御耳のうとき樣になされしかど、將軍家も大御所の仰せ置かれし事共も思召し捨て難くて、終に竹千代殿を御世嗣にはせさせ給ふ、この故に御兄弟の御中も、平らかならず、大納言終に失はせ給ひぬと、世の人皆云ひも傳へ、筆にもしるせり、受け難き事共なり抑も大相國家と申すは、篤恭の御德備はらせ給ひ、近代の賢主にてわたらせ給ひし御事なり、いかでかく理なき御心ましますべき、これ皆妬忌深き婦人女子の口より出で、物の心をも辨へぬ人の、私の腹をもて公なる御心を計れるより出でし說なるべし、今も世にあることなり、さらぬ賤しき家にも、かゝる一大事の外人の知るべき事にやいある、ましてやんことなき御事をや、何者がかく聞きも傳ふべき、されど斯る事は古の賢聖の人と聞えしも、世の疑をば遁れ給はぬも多かりき、正しき證なからんには疑ひ破るべからず、されば其證の爲に、一つの物語を爰にしるすべし、たとへば國千代殿幼けなくわたらせ給ひし時、銕炮打つことを稻富に學ばせ給ひ、元和四年十月九日西城の隍の邊りに鴨の集てありしを、此方の橋の上より鐵炮にて打たせ給ふに、誤たせ給はで中りぬ、深く悅ばせ給ひ御母上の御方に參せらる、御臺所また悅ばせ給ふこと淺からず、此夜將軍家入らせ給ひしに、かの鴨を御羹にしたゝめて、御酒すゝめらる、國千代君の手づから得たまふよし聞召し、將軍家も御心地よげにて、さるにても何處にてか、獲たりけんとありしに、ありしやう御物語ありしかば、聞召しもあへず、御箸を投け棄て給ひ、何者の供に候ひて、かゝる不思儀をば振舞はせたりけん、抑も我が城は父大御所の新に修し築かせ給ひ、我に讓らせ給ひ、我また竹千代殿に參らすべき所なり、夫に國千代が身として、其城に向ひ自ら鐵炮を放つこと、上には天道に背き且は父大御所の神慮のほども計り難く、下には竹千代殿のかへり聞き給はんことも、その憚なきにあらずと、以ての外に御氣色そこねて御座を立たせ給ひ、其日かの御供に侍ひし人々、糺されて御不審を蒙る、其時御前に侍ひし女房達の後に老いて家に在りしが御臺所の御方にて仰せられし事かくと語りしなり、此物語は世にも遍く知れる所なり、此御言葉にて誠に深き御心の中を押量りなば、世の傳ふる所の皆ひがでと1なるを知るべきものなり、その外此殿の事につきて、御父子兄弟の御中の事共、色々に世に傳ふることあり、すべて受け難き事共なり大相國家かくれさせ給ひし後、諸大名の許へ、いづちともなく、將軍家失ひ參らせて駿河殿御代に立て參らせん由の、めぐらし文をめぐらす、此時松平陸奥守政宗、最初に將軍家に參りて、かくと申す、藤堂和泉守高虎これに續ぎ、其餘の人々皆此由を告け申すに、加藤肥後守忠廣父子、此由を申さず、駿河殿にも此事知召しながら、早く告け申させ給はざりしに因て、罪かうふらせ給ひぬ、抑も此謀は土井大炊頭利勝より出たり、利勝心に思ひけるは、今の世、よのつねの大名の謀反企てんに、誰かは組みすべき、御一門の人々の御結搆あらんには、組みする事もありなんやと思ひしかば、大相國かくれ給ひしより、罪蒙ふれる樣にして引き籠り居て、忍ひ〱に此廻文を廻らす、加藤父子が罪定りしのち、利勝いつとなく出て仕へしとかや、此後百世を經るとも、誰かかゝる謀には組みすべき、利勝は深き謀ある人にて永き當家の忠臣たりと、舊き者の申せしを承りき、誠にしかりや、〇駿河殿罪かうふらせ給ひしのち、彼家よりして武田大膳大夫入道信玄の旗幟出たり、將軍家怪しみ思召されて、御糺明の事ありしに、甲斐國に長遠寺といふ親鸞宗の僧あり、故入道が時に、此僧大坂長嶋の使して、信長亡さん謀をめぐらす、信玄悅で娘あたへ聟とせり、男子出生す其名を二位と名づく、これ信玄の外孫なりとて、初め武田が家に仕へし人の、崇敬いふばかりなし、この長遠寺が許に、かの旗幟ありしを駿河殿に參らせしなり、其事疑しき事共ありとて、長遠寺父子佐渡國に流さる、此時武田が家より召出されし御家人等も大に恐れぬ、彼寺既に破却せらるべきを東泰院の門跡の請ふに依て許し給ひしかば、今は改めて光澤寺と名つけ、彼の門跡より兼帶輪番の寺となれり、右大臣家の御時に、かの長遠寺が子、赦蒙りて歸り武田二位と名のり年老て死したり然るを今は信玄の嫡孫たる由をいふ人あり、いかなる故にや詳なる事をば知らず、
- ひがでと — 底本のまま。本書の他の箇所は「ひがこと」。底本の誤植とみられる