藩翰譜本文データベース

家一覧 › 第十二下 › f194

戶川

第十二下 · 段落 1 · 780526 73コマ Rから

人物地名官職家日付索引一覧
この家によく出る人物・地名

人物 7 6 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

地名 1 1 1 1 1 1 1 1 1

肥後守藤原達安は故肥後守秀安が男也、秀安が父玄蕃定安は生國安藝の者、備後の國に移り住む、其子秀安、初は富川と名のりしを秀安が時戶川と改めたり初の名は平右衞門と云ふ幼けなくして父に後れ、母と共に備前の國に迷ひ來て成人の後、宇喜多和泉守直家が家いまだ微なりし時より仕へ、直家が身を起すに隨ひ、秀安も手に属する所の軍兵三千人、一方の大將とぞなされける、二万五千石を領すと云秀安天正の初に卒し肥後守達安父に繼き、直家が子息中納言秀家に仕ふ、是も父に劣らぬ剛の者、宇喜多が家の老三人の隨一なり、戶川長船岡といふ慶長四年の十月、主從不快の事出來て、達安等秀家が家を去る、浮田左京亮岡越前守花房志摩守等の輩也明れば五年の秋、德川殿奥の會津に御發向ありし時、肥後守達安御勢に馳せ加る、上方の軍又起りしかば、引返して美濃尾張の間に戰ふ、其勸賞として所領の地下し賜ふ、一万石大坂の戰に隨ひ、次第に御恩蒙りて備中國都宇郡庭瀨の庄を領す、三万石達安卒して卒する年月いまだ知らず其嫡子土佐守正安家を繼ぐ、二万三千四百石舍弟等に所領わかつ、二男内藏助三千四百石三男主膳三千石四男主水千二百石といふ正安寛文九年五月に卒す、其嫡子平八郞信安世を早うしけれは、二男玄蕃安宣家を繼き舍弟に所領わかつ、木工助千五百石といふ此年十二月廿五日叙爵して土佐守に任し、延寶二年十二月廿八日卒す、嫡子縫殿助家を繼き舍第に所領わかつ、千石同き七年十一月二日縫殿助わづか九歲にして死しぬれば家絕えぬ、舍弟土千代に五千石を賜しなり