出羽守三宅某は出羽守が名諸記に見えし所直行成正重長直盛信顯等の異ありて疑しかるが故にしるさず先祖は遠く百濟國より出でたりけり、彼國の人兄弟三人初め兒たりし時、船を浮べて我が國に到り、備前の國にして一つの嶋に止れり、旗幟みな兒といふ字をしるしたれば、その嶋を兒嶋とこそ名付けけれ、其兄弟その後自ら三宅を以て姓となし、宇喜多とも又名のりけり、和泉守能家が時に至り、明應の頃の人と云ふ或人の申せしは宇喜多はもと兒島三郞高德が子孫なるよし慥に見る所ありと云ふ浮田の記に見えざれば略しぬ當國の守護浦上美作守紀則宗が被官として山陽道に名を顯はす、能家が子興家三人の男子あり、嫡男直家これ中納言秀家の父なりけり、二男春家三男忠家これ出羽守が父なり、直家が家を興すに及んで、忠家兄が家を輔く、直家卒して其子中納言秀家が時に至り、忠家入道して安心とぞ申しける、出羽守初め父と共に秀家に仕へ、浮田左京亮と申す、此時は直行といひしよし或記に見ゆ直家が名の字給ひしにや後に彼家を去て名を改めしも知らず慶長四年の冬秀家が家の老共、主を恨むること有つて左京亮を始として、戶川肥後守幷に弟助左衞門花房志摩守幷に息彌左衞門岡越前守角南隼人楢村監物等彼の家を去る、明れば五年の夏德川殿奧に向はせ給ひし時、左京亮等御供に從ひ上方の軍起りし後、海道を攻め上る故主中納言秀家は一方の大將軍にて關が原に立向ひ、東國の先陣と戰て散々にかけ敗られ、行方知れず落ち失せぬ、左京亮は勸賞給て石見の國津和野の城を領す、三万石其後名をも氏をも改て、坂崎對馬守と申し又出羽守に成てけり、大坂の戰に隨てのち、元和三年將軍家を怨み1參らすることあつて、終に自害してこそ失せにけれ、
- 三年將軍家を怨み — 底本のまま(前の列末「元和」)。坂崎直盛の自害(千姫事件)は元和2年9月が通説