內匠頭源信成は、讃岐守康成が男、康成年比德川殿に仕へて、康成が父をも讃岐守といひ、正成と名のると云此家の事、諸記に見ゆる事少し、家忠日記に、德川殿、初て御上洛の時、供奉せし由ばかりを載す、康成が戰功漏るゝ事多かるべし、關東に移らせ玉ひしのち、武藏國石戶の地を領す、五千石關が原の戰には、海道の御供して、先陣を承る、御前備衆といふ信成大相國家に仕へて、元和二年二月大番の頭と成る、諸役人系圖を見るに番頭たる事、寬永五年に至れるにや、寛永十九年の秋、若君の御傳となさる、右大臣家の御事正保元年正月十一日、下總の國關宿の城を賜ふ、二万二千石と云、慶安三年四月十一日、七十二歲にして卒す、嫡男世を早うせしかば、二男佐渡守親成を世嗣とす、親成初め寛永十年八月九日に、步行衆の頭と成りて、同じき九年三月1十五日、御書院番の頭に遷り、昵近して事を執る、御側衆出頭人衆といふ、番頭たることと、いつまてといふ事詳ならず、父卒して、家を繼き、右大臣家御代つがせ玉ひても、昵近元の如し、承應元年正月十一日、御鷹の事を掌る、同き三年八月、京職に補せられ、此月廿六日、侍五十騎足輕の兵百人を附けられ、所領加賜ふ、三万二千石を領す、明曆元年二月四日、從四位の侍從となされ、職にある事凡十五年、寛文八年五月十六日、職ゆるされ、同き廿三日丹後國田邊の城を給ふ、三万五千石延寶元年九月廿九日致仕、同き五年九月廿三日卒す、七十一歲、舍弟因幡守富成を以て世嗣とす、因幡守富成は内匠頭信成が六男、親成が讓を受く、
- 同じき九年三月 — 지면 그대로. 寛永10年 기사 뒤에 「同じき九年」이 와서 순서가 맞지 않음. 「十九年」의 탈자 가능성. 미확인