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가문 목록 › 第四下 › f039

牧野

第四下 · 단락 4 · 780521 50코마 R부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 18 7 6 5 4 4 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1

지명 5 4 4 3 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

右馬允源康成は、初名は新次郞故右馬允成定が子なり、初め成定三河國牛窪の城に在り、永祿の初、吉良義昭が爲めに西尾の城を守り、酒井雅樂助正親と戰ふ事、時を經て成定終に怺へずして、西尾を去て、牛窪に歸る、永祿四年の事なり、其後また今川の方人して、德川殿と戰ふ事、度々に及び、小坂井赤坂等に戰ひしなり、同八年に至て、終に德川殿に降る、其族出羽守某と、牧野と稱す所領の地爭ふ事に依て、九年五月、水野殿に仰せて、出羽守を追却せられ、成定して、本領を安堵せしめらる、此年十月廿三日、成定年四十二にして死す、其子新次郞、いまだ幼なし、一族家人等に任せて、父が後を繼せらる、新次郞十三歲にや此時水野下野守信元より牧野が家老共に贈られし狀を見るに、新次郞此程は質子として、今川が許に在りしなり、十二年の冬氏眞駿河國を失ふに及ひて、本領の地に歸りたるべし、
世に傳ふる所、三河國の牧野は昔し平家の侍、讃岐國の住人、阿波民部重能が嫡男田内左衞門尉致能が後胤たり、平家亡ひ、本領の地を失ひ、其子孫當國に來り住せしを、牧野と申せしといふなり、此說の如くならんには、牧野もと田口姓なり、如何なる故に因て、此流には源氏と稱しぬらん、詳なる事を知らず、また三河物語に、亨祿の初1に二郞三郞殿、吉田の城を攻められしに、牧野傳藏傳次新藏新次兄弟四人戰死して、城を取られしといふ事あり、康成の家、代々其初名を新次郞といひしかば、傳藏が子の後たるにや有らん、されど傳藏の後、人いふ所の如きには、新三新二の事詳ならず、吉田の城に戰死せし者共の事、傳左衛門尉父子三人、並に新二新三としるせしものゝあれば、新二新三二人は傳左衞門尉が子とは見えずといふなり、思ふに、これら只其一族にして、正しき兄弟なりといふには、あらざるべし、また創業記に據るに、初め牧野古柏入道、今橋の城にありて、田原の戶田と心よからす、今川治部大輔氏親、戶田を助けて、今橋の城を攻む、永正三年十一月、城破れて、牧野入道腹切て死す、城をば戶田ぞ取たりける、古柏が子傳藏成人の程、再ひ城を攻取て、移り住み東三河の地を併す、亨祿五年2五月、傳三傳二兄弟、二郞三郞殿の爲に戰死して、城また陷る、是は牧野が族傳兵衞尉某、正岡の城にありて、岡崎表に心を合せしが故なりしかば、頓て傳兵衞尉して、其城を守らしめらる、其後天文六年戶田また傳兵衞尉が家人戶田新二郞同宗兵衞尉と心を合せて、今橋の城を取る、同き十年今川3また其城を攻取て、小原肥前守して守らしむ、永祿中牛窪の牧野新二郞を始めて、東三河の衆と、德川殿の御方に屬して、八年三月終に今橋の城を攻取られぬ、今橋をば後に吉田の城といふなり、〇慶長中傳三が孫傳藏成里、御家人に召されて、叙爵し伊豫守に任す、此流の如きは、則ち田口を以て姓とす、
  1. — 지면 그대로. 연호 「享祿」의 저본 오식 가능성
  2. — 지면 그대로. 연호 「享祿」의 저본 오식 가능성
  3. — 지면 그대로. 今川의 今橋城 탈취를 天文10年으로 적으나 f036.p003은 天文15年(통설 天文15年). 출처(創業記) 차이로 보임
新次郞既に成人の後、御諱の字賜て、右馬允康成と申す、天正三年、時に廿三歲か長篠合戰の時、酒井左衞門尉忠次と共に、鳶巢の要害を攻落す、今年遠江國諏訪原の城落つ、牧野の城と名を替て、康成に賜ふ、松平周防守と守れり、家忠日記增補を按するに、康成に賜りしは記さねども、既に牧野の城と名付られし上は、康成に賜りし事疑ひ有べからず同き七年九月十八日、松平甚太郞家忠と共に、望宗の城をせむ、望宗また持舟にも作る、創業記には此時に攻れとも由を載すれとも、誤れるにや、八年五月、德川殿田中の城の邊りにて、麥からせて歸り玉ふに、望宗の城より敵出て御後を襲はんとす、康成等取て返し打破りぬ、十年の春、織田三位中將殿、甲斐國に攻入り給ひし時、三月三日康成仰を承て、牧野の城を出、駿河國に至り、興國寺の城を守り、系圖によれば、興國寺を守りしは天正四年の事にて、勝賴を防かんためといへり、覺束なし同き七月、久野三郞左衞門宗能と共に伊豆國柾戶の要害を守る、十一年十月、駿河國牛窪3の城を賜て移る、系圖によれば十年の事なり、十六年四月、從五位下に叙し、右馬允に任す、十八年の夏、小田原を攻られしに、德川殿に從ひ、遊軍の大將なり、此年上野國大胡の城を賜ふ、二万石、慶長五年の秋、東西一時に軍起りしに、康成子息新二郞忠成父子、中納言殿に從て、山道をのぼる、八月七日、眞田4昌幸が兵、上田の城より切て出て御方散々に打なさる、新二郞忠成、生年十八歲、手勢引具して先に進み、追來る敵を打破り、つゞく御方の軍勢と同しく、城に追詰て、旣に城を破らんとす、かゝる所に、御使馳せ來て、御下知なからんに城攻めん條、甚以て奇怪ありと制し止むる事、度々に及びしかば、落んとする城を落し得ず、御方は空しく引て歸る、同き九日、小諸の城に御陣を移さる、本多佐渡守正信申すに就きて、去りし七日に、上田の城先懸し、旣に城に攻上りしつはもの、大久保相摸守牧野右馬允二人が郞等、まづ速かに誅すべさよし1を仰せ下さる、新二郞忠成、是を聞て、高名したらん兵を誅しなんに、此後誰あつてか、はか〱しき軍をもせん、また郞等が主の爲に命を捨る事、珍らしからず、わが身など郞等の爲にすてざらん、いざされ汝とて、かの郞等を引具して、遂に逐電す、郞等牲掃部2といひしなり、父の康成、罪蒙て、上野國吾妻に蟄居せり、同き九年若君御誕生の事有て、大猷院殿、康成父子御免を蒙り、本領を安堵す、同十四年十二月十二日康成卒す、五十五歲なり、子息駿河守忠成新二郞の事なり、父に繼く、大坂前後の軍に、將軍家の先陣し、首廿七を切て献る、元和四年越後國長岡の城に移る、七万四千石寛永十一年七月廿二日、從四位下に昇り、年七十四歲にして、承應三年十二月十六日卒す、嫡子大和守光成早世しけれは、嫡孫飛驒守忠成を世嗣とす、祖父忠成我名をゆづりしとなり、忠成祖父につぎて、延寶二年五月廿七日四十歲にて卒す、其子駿河守忠辰つく、
  1. — 지면 그대로. 「誅すべきよし」의 저본 오식으로 보임
  2. — 지면 그대로. 통설 표기는 「贄掃部」(B3 0012R과 같은 인물). 미확인
  3. — 지면 그대로. 牛窪는 三河의 지명. 牧野康成이 받은 駿河의 성은 통설 長窪城(長久保城)
  4. — 지면 그대로. 秀忠의 上田城 공격은 통설 慶長5年 9월 초. 이 단락의 「同き九日」「去りし七日」도 같은 9월의 일