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松平(松井)

第四下 · 단락 5 · 780521 53코마 R부터

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周防守源康重は、故周防守康親の子なり、康親元は松井左近忠次と名乘る、三河國東條の家人幡豆郡の住人松井金四郞某が男弘治二年の春、右京亮義春出雲守殿の三男、安祥二郞三郞殿の御叔父、東條の家を繼き給ひしなり、失せ玉ひ、子息龜千代丸、後に甚太郞家忠と申す幼くおはせしかば、忠次其家の事を執り行ふ、永祿四年、德川殿、水野殿と、德川殿の御外舅下野守信元なり石が瀨に戰ひ玉ひしに、石川伯耆守本多肥後守植村庄右衞門等と先を爭ひて戰ひ、忠次鑓を合す此年又仰を承り、津の平を守りて、東條の城を攻む、吉良義昭怺へかねて降人となつて出づ、其勳賞に、津の平の地、忠次に賜はる、同き五年の春の比、德川殿、今川と御中快らず、初めより駿河の國府に留らせ玉ひし若君、三郞殿の御事失はれ給ふべしと聞ゆ、今年三月久松佐渡守俊勝、松井左近忠次を大將として、今川隨一の家人鵜殿長助が、名は孝景としるせるあり又長昭ともあり籠たる三河國西鄕の城1を攻めらる、忠次人をして要害よく見おほせて、忽に襲ひ攻めし程に鵜殿たまりかねて、城をば德川殿に參らせ、其身は駿河に歸らんと望む、さらばとて免されたり、忠次、兵を道に伏せて、鵜殿が二人の子を生捕る、氏眞深く歎き玉ひ、三郞殿を返し參らせて、鵜殿が子を乞ひ返さる、忠次ゆゝしく謀りけりと、御感斜ならず、同じき六年、吉良義昭、再ひ叛く、忠次、龜千代丸の代官として、幡豆郡に要害を搆へ、東條の城を攻め落す、忠次に、東條の城を加へ玉ふ、同じき十二年正月、今川氏眞、遠江の國掛川の城にこもられしを攻めらる、同き廿二日の夜に入つて、かたき天王山の御陣を襲ふべしと聞えければ、忠次大久保大須賀等の人々と出て向つて戰ひ、夜既に明けぬれども、勝負いまだ決せず、忠次が郞等岡田竹右衞門石川新兵衞石田與一などいふ一人當千の兵ども戰つて、終に敵を打破る、元龜元年六月、姉川の合戰に、忠次弓手の腕を、鞍の前輪に射付られ、從者して矢ぬかせ、其矢を以て、其敵を射殺す、同年の九月織田殿の加勢として、近江國に趣き、佐々木が多勢を打破り、同き三年三方が原の戰に、東條の者共もひきゐて戰ひ、天正三年五月長篠の戰に鳶巢の要害を攻落す、此年八月、遠江國諏訪の原の城、落されて、宗徒の人々を召され、抑この諏訪の原の城は、高天神の通路にて、田中の城を去る事、僅に大井川の水を隔つ、敵の必ず爭ふべき所、當國第一の要害なり、誰か我がために、此城を守らんとは思ふと仰らる、誠に大事の處なれば、望み申す人、更になし、良あつて、忠次進み出て、身不肖には候へども、御免しを蒙りたらんには、忠次此所に留り守り候はゞやと申、德川殿大に悅ひ玉ひ、御姓字を許し給はり、松平周防守康親とめされ、當國樽木河尻七百貫の地加へ玉ひ、諏訪の原を改て、牧野の城と名つけ、牧野右馬允康成に仰て、康親と同しく留められ、また譜代の御家人二人つゝ、康成康親にそへられたり天正三年八月より同き十年三月まてこゝを守り武田つひに亡ひしなり
  1. — 지면 그대로. 永禄5年 鵜殿長照가 지키다 함락된 성은 통설 三河 上ノ郷城(上之郷)
一說に、康親に松平を許し玉ひしは、永祿六年東條の地を賜ひし時の事なりといふ、さも有るべしや、天正三年より、さきの世に、松平左近將監と記されしものあり、又天正の初、上杉謙信へ、松平左近將監貞泰といふ人を、御使に遣はされし事、慥に所見あり、其時二人の松平左近將監あるべからず、されば貞泰といふは、康親の初の名たるべし、然らば牧野の城の時には、御諱字を賜はりたる事と覺ゆるなり、
同き六月高明の城も落つ、諏訪の原の殘黨、みな小山の城に籠ると聞えて、又小山をも攻めらる、酒井左衞門尉忠次、止め申せしかど康親ひとり仰に隨て、石川伯耆守數正と共に二人、先陣を給て押寄せぬ、武田四郞、二万餘騎にて、後卷しける程に御勢をば返へされたり、四年三月十七日、松平甚太郞家忠、代龜千代丸井に周防守康親、駿河國山東の地を賜ひ半をば今川氏眞に參らせられ、康親して、今川家の事をぞ執せらる、
去し永祿の末、今川氏眞、武田が爲に、駿河國を失ひ、遠江國掛川の城に落來り、また德川殿に破られて、相摸國に落ち玉ふ德川殿昔の好みを思召され、如何にもして再び駿河國へ、返へし入れらるべきよしを仰らる、氏眞ゆかりに就て、北條を賴み、小田原に落行玉ひしかば、武藏の品川といふ所に置かる、品川殿と申せしが、北條の力にて、本國を取返さん事も、叶ひ難く、德川殿の御情にて、此年牧野の城に迎へ入れ、山東の地の半を參らせられし程に、まづ本國に歸る事を得られたり、此のち武田亡ひ、德川殿駿河國を分ち取り玉ひ、氏眞に城を賜ふべしと議せられしを、信長聞き玉ひ、かゝる不覺の人に、駿河の地與へ給はん事、詮なき計ひかな、左程無用の地ならんには、信長が方へ賜るべしと怒り給ひしかば、德川殿も力及ばせ玉はずして、其事止みしとなり、
同き七年九月、北條氏政と同しく武田四郞討るべしとて、掛川の城に打出て玉ふ、四郞駿河に向ひしかば、德川殿歸らせ玉ひて、康親後陣を承る、八年望宗の城邊にて、御方の後陣、朝比奈駿河守が勢と戰ふに、康親取て返し戰ひ、三浦兵部少輔を討取、康親が郞等岡田竹右衞門が討しなり、同十年の秋、德川殿甲斐國に發向あり、北條が軍勢襲ひ來る事あるべしとて、伊豆駿河の境なる三枚橋の城を築きて、康親して守らせられ、小笠原安藝守信元、同丹後守安次をも、同く爰に籠められたり、案の如く九月廿五日、北條の軍勢、小田原の城より、三嶋に打出つ、三枚橋の勢出て戰ひ、丹後守安次討死し、安藝守信元が家子郞等多く討る、敵又韮山の城より出て三枚橋を攻めんとす、康親爰に在りと見て、終に近づく事を得ず、明れば十一年二月十二日駿河國河東の地給て、一郡の政勢を執る、康親に給ふ所二万千百貫の地、此年六月十七日康親六十三歲にて卒す、其子康重生年十六歲にて、父に繼き、三枚橋の城を守る、十二年小牧の戰に、沼津の城を守る、沼津は三枚橋なり、十三年八月、信濃國上田の城を攻めて、御方利を失ふと聞えしかば、大須賀井伊の人々と、彼國に向て、御方を迎へて引返す、十八年三月廿九日、北條が山中の城落つ、明れば四月朔日、康重仰を承り、佐野口より進みて、宮城野に打上り、北條勢と戰ひ、首八十餘を討取る、宮城野湯本竹浦三箇所を固めし敵の勢たまりかねて、小田原の城に迯去りぬ、六月廿二日の夜、井伊兵部少輔直政が小田原の外城を襲ひし時、康重繼きて攻入りぬ、今年關東へ移り玉ひしかば、武藏國私市の地をぞ賜つたる、二万石其後叙爵して、周防守に任す、關が原合戰の後大柿の城を守て、明れば慶長六年の春、常陸國笠間の城を給ふ、三万石同き七年五月、佐竹、秋田に移されし時、康重等水戶の城請取て、軍兵を留め守らせ、其身は笠間の城に歸る、佐竹が重代の家子郞等の、かしこに、落ち殘りたる輩、謀反して、水戶の城を襲はんとす、康重斯と聞きしかば、鞭鐙を合せて馳向ふ、七月十日の夜逆徒旣に外城にせめ入らんとせし所を、さん〲に打破り、謀反の張本せし輩、所々にて誅せらる、同十三年の秋大御所仰けるは、丹波國笹山の地は、山陰の諸國、鎭むべき要害なり、元の城修し築て守らすべしとて、西海南海兩道の諸大名に課せ築れ、康重にぞ賜ける、五万石大坂前後の戰には、別の仰を承りて、龜山の城を守る、攝津國曾根の一揆起りしと聞えしかば、兵共差向け、首三十餘切て、龜山の城下にかく、元和五年和泉國岸和田の城に移る、寛永三年八月、從四位下に昇せられ、同十七年六月廿七日七十三歲にて卒けり、これよりさき、十一年七月廿二日、所領の御判を給る、是は開發の田を引むすひて、六万石の御判を望みしゆゑなり、嫡子左近大夫康政、父に先立て寬永七年十月十七日卒ければ、二男康映父に繼き播州宍栗の郡に移り、此年十二月廿八日周防守に任す、これより先に叙爵せしなるべし、其官名未だ知らす、慶安二年八月十二日、石見國濱田の城を給ひ、延寳二年十二月晦日六十歲にして、卒し、二男主計頭康長家を繼き、周防守に任し、舍弟主水某に所領をわかつ、新墾田二千石