周防守源康重は、故周防守康親の子なり、康親元は松井左近忠次と名乘る、三河國東條の家人幡豆郡の住人松井金四郞某が男弘治二年の春、右京亮義春出雲守殿の三男、安祥二郞三郞殿の御叔父、東條の家を繼き給ひしなり、失せ玉ひ、子息龜千代丸、後に甚太郞家忠と申す幼くおはせしかば、忠次其家の事を執り行ふ、永祿四年、德川殿、水野殿と、德川殿の御外舅下野守信元なり石が瀨に戰ひ玉ひしに、石川伯耆守本多肥後守植村庄右衞門等と先を爭ひて戰ひ、忠次鑓を合す此年又仰を承り、津の平を守りて、東條の城を攻む、吉良義昭怺へかねて降人となつて出づ、其勳賞に、津の平の地、忠次に賜はる、同き五年の春の比、德川殿、今川と御中快らず、初めより駿河の國府に留らせ玉ひし若君、三郞殿の御事失はれ給ふべしと聞ゆ、今年三月久松佐渡守俊勝、松井左近忠次を大將として、今川隨一の家人鵜殿長助が、名は孝景としるせるあり又長昭ともあり籠たる三河國西鄕の城1を攻めらる、忠次人をして要害よく見おほせて、忽に襲ひ攻めし程に鵜殿たまりかねて、城をば德川殿に參らせ、其身は駿河に歸らんと望む、さらばとて免されたり、忠次、兵を道に伏せて、鵜殿が二人の子を生捕る、氏眞深く歎き玉ひ、三郞殿を返し參らせて、鵜殿が子を乞ひ返さる、忠次ゆゝしく謀りけりと、御感斜ならず、同じき六年、吉良義昭、再ひ叛く、忠次、龜千代丸の代官として、幡豆郡に要害を搆へ、東條の城を攻め落す、忠次に、東條の城を加へ玉ふ、同じき十二年正月、今川氏眞、遠江の國掛川の城にこもられしを攻めらる、同き廿二日の夜に入つて、かたき天王山の御陣を襲ふべしと聞えければ、忠次大久保大須賀等の人々と出て向つて戰ひ、夜既に明けぬれども、勝負いまだ決せず、忠次が郞等岡田竹右衞門石川新兵衞石田與一などいふ一人當千の兵ども戰つて、終に敵を打破る、元龜元年六月、姉川の合戰に、忠次弓手の腕を、鞍の前輪に射付られ、從者して矢ぬかせ、其矢を以て、其敵を射殺す、同年の九月織田殿の加勢として、近江國に趣き、佐々木が多勢を打破り、同き三年三方が原の戰に、東條の者共もひきゐて戰ひ、天正三年五月長篠の戰に鳶巢の要害を攻落す、此年八月、遠江國諏訪の原の城、落されて、宗徒の人々を召され、抑この諏訪の原の城は、高天神の通路にて、田中の城を去る事、僅に大井川の水を隔つ、敵の必ず爭ふべき所、當國第一の要害なり、誰か我がために、此城を守らんとは思ふと仰らる、誠に大事の處なれば、望み申す人、更になし、良あつて、忠次進み出て、身不肖には候へども、御免しを蒙りたらんには、忠次此所に留り守り候はゞやと申、德川殿大に悅ひ玉ひ、御姓字を許し給はり、松平周防守康親とめされ、當國樽木河尻七百貫の地加へ玉ひ、諏訪の原を改て、牧野の城と名つけ、牧野右馬允康成に仰て、康親と同しく留められ、また譜代の御家人二人つゝ、康成康親にそへられたり天正三年八月より同き十年三月まてこゝを守り武田つひに亡ひしなり
- 國西鄕の城 — 지면 그대로. 永禄5年 鵜殿長照가 지키다 함락된 성은 통설 三河 上ノ郷城(上之郷)