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市橋

第九上 · 단락 4 · 780524 52코마 R부터

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下總守藤原長勝は、壹岐守長利が男、累代の祖、美濃國池田の郡市橋の住人なり、先祖は三條庶流の藤氏にて、專順と云し人、初て當國に下り住む、專順より長利に至るまで、幾代と云ふこと詳ならずと云ふ、一說に大和源氏の流、成田三郞光治、承久の勳賞に、美濃國池田郡市橋の庄の地頭職に補せられ、後子孫當國に住して、市橋と名のる、光治七代の孫七郞左衞門尉利治、嗣なくして、三條家の庶流利尙をして、家繼がす、利尙壹岐守に任し、入道の後、專順と號す、此則ち壹岐守長利が父なりと云ふ、
長利初め織田殿に屬し、其後關白秀吉に從ひ、天正十三年三月十三日、七十三歲にて卒す、下總守長勝、又織田羽柴の兩家に仕へて、美濃國今尾の城を領す、一万石慶長五年の秋、德川殿の奧の御陣に隨て、東國に在り、上方の兵又起ると聞て、關東の御方として、本國に馳上る、大坂の軍勢、東國に攻め下ると聞えしかば、其勢僅に六百人、今尾の城に楯籠る、市橋が分際、さも有らん、東國の敵、破れなば、降人にこそ、參るべけれとて、伊藤丸毛が勢、藤川の前に陣取て、攻むるにも及はず、長勝城より討て出て、水を隔て、矢軍に日を暮し、敵陣に夜討して、散々に戰ひしかば、寄手怺へず、福塚の城に入る、長勝續て攻めし程に、城をも終に落されて、大柿の城に遁れ行く、長勝福塚の城に在て、桑名大柿の道を差塞き、大柿の城下より押入て、番の兵十七人が首、斬て獻る、軍終て後、長勝が功、是れ少なからずとて、勸賞を行はれ、本領新恩の地、合せて二万石宛行はる慶長十三年、伯耆國八橋の城に遷さる、同き十九年、大坂の兵起りし時、馳上りて、城を攻む、再ひ兵起りしかば、己が所領星田村に陣取て、大御所の御陣を迎へ、又仰を蒙りて、手の者をして、彼の村を守らす、元和二年の夏、大御所隱れさせ給ひし時、仰せ置れし御旨に依て、越後國三條の城に數多の地附て、長勝に下し賜ふ、是れ大坂の戰功を賞せられし故とぞ聞へし、調四万三千三百石年六十四歲にして、同き六年三月十七日に卒す、家繼すべき男なければ、其甥長政して、家を繼せらる、下總守長政、實は林右衛門某か子初め慶長九年に右大將家に仕へ、此時台德院殿未だ右大將にてましませしなり大坂前後の戰ひに隨ふ、元和の初、下總の國香取海上等の郡にして、所領を賜ひ、千石其後所領地加へられ、三千石長勝卒して後に其家を繼せ、近江國仁正寺の地を賜ひけり、河內の地を合せて二万石を領す
世に傳ふる所は、故下總守長勝、女子のみ有て、男子なし、己が家人に、娘あはぜて、家號名乘らせ、市橋三四郞と云ひしを、世嗣に立てんことを望み請て卒す、家人等敢て請はず、其甥長政して、家繼がせんことを望み申す、此由聞召され、長勝が望みし所にあらねども、家人等が申す所、其理なきにあらずとて、長政に其家繼かしめられ、長勝が本領の地程を下し給ひ、又長勝が望み請ひし所も、捨て給ふまじきとて、彼の三四郞にも、別に三千石の所領、賜りて、御家人に召加へれしと申す也、