吉川元春未だ伉儷有らざりける時、毛利元就兒玉就忠を以て、元春の意の嚮ふ所何れの女を欲するかと問はしめけるに、元春、吾熊谷信直の女を得んと欲す、と云はれければ、就忠呆然として大に驚き、君這は其美を謬聞きつらんか。彼の女の醜惡事云はん方無く、殆ど其の匹なし。君必ず後に之を悔いつらんと云ひけるに、元春晒うて云へるやう、然り、吾れ素より其の醜き事を知る。旣に知りて之を望むものは、敢て奇を好むに非ず。抑も亦故ありて存する事なり。古來名將女色を以て其の勇を失ふ者多し。人の取る者吾れ之を取らず。人の取らざる者吾れ之を取らば、信直の心中さぞな嬉しき事ならん。其の感喜の情吾が爲めに死力を出さん事、最も覩易きの情理なり。此の間將卒孰か信直の右に出づる者有らん。然らば吾れ之と鋒を聯ねて以て家君の先鋒とならば、向ふ所摧破らざる無きのみと。就忠之を聞きて慚服なし、軈て元就に告げて之を娶りけるにぞ、信直果して大に喜び、其の力を盡す事頗る勉めたりければ、是れより毛利氏の兵鋒益々銳利かりける。