天正三年八月東照宮諏訪原の城を攻めさせ給ふ。此の城は甲州馬場美濃守氏勝が、城制の法にて築きたりし名高き城なりと雖も、城兵力弱りて、二十四日の夜城を棄てて小山の城に迯げ落ちたり。東照宮、此の地は高天神に往來の要路、駿州田中持船の敵と、大井川一筋を隔てたり。勝賴必ず隙を伺ふべし。誰か此に在りて城を守り、敵を防ぐべき、と仰せ有りけるに、松平左近忠次進み出で、身不肖に候へども、此の城を守り申すべし、と申しける。御感有りて松平の姓を賜はり、御諱の字を下され、松平周防守康親と申せしは此の時よりの事なり。勝賴が暴惡殷の紂王に似たり。之より攻め入りて打ち滅すべき、とて諏訪の原の城を牧野の城と改められしとなり。